SIR JOSHUA REYNOLDS
模倣・自然・理想美について
高倉 正行
Ⅰ
他のヨーロッパ諸国に一世紀あまり遅れて、1768年、英国に漸く絵画のアカデミーが設立された。それ以前に絵画学校がなかったわけではないが、それらはすべて私設のもので、公的な機関ではなかった。国王ジョージ3世の許可を得て設立されたアカデミーRoyal Academy of Artsの初代院長にはSir Joshua Reynolds(1723-1792)が就任した。このアカデミーには2つの目的があり、それらは展示会の開催(当初は年に一度)と絵画学校の運営であった。レノルズは院長として、就任最初の年から辞任する1790年まで、展示会の授賞式で通算15回の講演を行い、それらが纏められ一冊の書物Discourses(以下『講演集』)になった。英国人の手による絵画論でこれほど多くの版を重ねた書物は他にないように思われる。レノルズの存命中にイタリア語、フランス語、ドイツ語に訳され、現在にいたるまでおそらく40版は重ねていると思われる。
レノルズの絵画論は内容の構成面から見れば、それに先立つWilliam Aglionby、Jonathan Richardson、Hogarth、あるいはDrydenによって散文訳されたDu Fresnoyの絵画論とは趣を大きく異にする。*1 これらの絵画論は最初から一冊の書物として意図され書かれたのであって、それゆえ内容に統一感がある。一方『講演集』はほぼ年に一度の講演を集めたものであり、論としての構成力に欠ける。しかしこのような欠点があるにもかかわらず、前述の絵画論が歴史の片隅に追いやられる傾向があるのにたいし、レノルズの絵画論は今なお読み続けられている。
『講演集』の内容は画家の育成と絵画の本質とに大別され、これら2つの要素は相互に関係している。画家の育成にあたっては絵画とは何かということが明確でなければならない。レノルズは不完全な自然の総体的概念(generality)である理想美の追究が画家の務めであり、それを表したものが最高の絵画であると主張する。彼は持論を展開するにあたり、伝統的概念である模倣・自然・理想美といった言葉を使用するが、まずはこれらの概念の意味するところを明確にしておかねばならない。その後レノルズがそれらの概念をどのように扱ったのか、そしてそれらを画家の育成にどのように適応したのかを述べることにしたい。
Ⅱ
模倣についての概念は芸術についての理論と同様に古くからあり、Wladyslaw Tatarkiewiczは紀元前4世紀の古典時代までに4つの異なる考えがあったことを指摘している。すなわち“the ritualistic concept (expression)”、“the concept of Democritus (imitation of natural processes)”、“Platonic (copying of nature)”、そして“Aristotelian (free creation of the work of art based on elements of nature)”である。*2最初の「儀礼的概念」は模倣(Mimesis)という言葉の起源に関わる意味であり、ディオニュソス崇拝の儀式と秘儀に関係するものとされ、舞踏・音楽・唱歌など司祭によって演じられる祭礼行為を意味した。しかしこの意味は紀元前5世紀には消え失せ、外的世界の再現を意味する哲学的用語になった。第二のデモクリトスの模倣概念は、蜘蛛をまねて織物を織り、燕をまねて家を作るがごとく、自然が機能する様をまねるの意味である。ゆえにデモクリトスの意図する芸術は、現在ならば工芸とか応用美術ということになるだろう。第三のプラトンの模倣概念についてであるが、『国家』第10巻(602)で、芸術は外界を受動的に写し取る行為であり、芸術による模倣は真実に至る道ではないと考え、芸術を肯定的に捉えなかった。プラトンによれば現実界の事物はイデアのコピーであり、芸術家はそのコピーを模倣する存在者ということになる。芸術家を肯定的に捉える言説も一部ある(『国家』 第4巻 501)が、全体的に見れば芸術を自立的な領域と見なしていない。*3
第四のアリストテレスの創作論についてであるが、『詩学』の中で模倣についてプラトンとは異なる見解を披露している。アリストテレスはプラトンと同様に芸術は現実を模倣するいう観点を捨てることはないものの、模倣という行為をさらに広義に解釈する。彼は芸術的模倣を、「かつてそうであったような、あるいは現にそうであるようなことがら」、「人々がそうであると語ったり考えたりしているようなことがら」、「そのようにあるべきことがら」*4の3種類に分類し、「創作家(詩人)の仕事は実際に起こった出来事を語ることではなく、起こるであろうような出来事、すなわち、もっともな成行きまたは必然不可避の仕方で起こりえる可能事を語ることだ」*5と主張する。個別的な事柄(起こった変更不可能な事柄)を述べるのが歴史であり、普遍的な事柄(現実にはそうならなかったが、そうなるべきであった事柄)を述べるのが創作(詩)ということになろう。つまり作家(芸術家)とは、自然をそこから普遍的な事柄が導き出される可能態とみなす人間ということになる。タタルキェヴィッチによれば、「模倣はアリストテレスにとって現実の単なる写しではなく、あり得べき現実への自由で軽やかな接近を意味した。つまり、模倣する芸術家は、自分自身の方法で現実を提示することができるのである。」*6プラトンにとって、芸術家は形而上的実体である完全なイデアの写しにすぎない不完全な自然を忠実に写し取る存在であるのにたいし、アリストテレスにとって、芸術家は自然の中の事物が契機になるとしても、自己あるいは他者の心の中の普遍的であると思われる事柄を表現する存在となるだろう。プラトンの意識の根底にあるのは芸術の写実的模倣であり、それゆえ芸術・芸術家が否定されるわけだが、一方アリストテレスの芸術観は芸術の普遍的・理想主義的模倣に力点が置かれ、自然からの軽やかな飛翔を可能にする。
模倣についてのこれら両者の考え方はルネッサンス期にいたっても引き継がれ、絵画論ではすでに前提条件になっていた。*7たとえば初期ルネッサンス期の代表的絵画論、Leon Battista Alberti(1404-1472)作のDella Picttura『絵画論』(1435-6)を取り上げてみよう。彼は第3巻で自然をそのまま模倣した古代ギリシャの画家デメトリウスを否定し、画家ゼウクシスを良しとする。後者はヘラ神殿に納められたヘレネの肖像を描くときにクロトンの女性を5人選び、それぞれの美しいところを選んで描いた。アルベルティはデメトリウスが自然を選別することなく描いたことを非難しているのであるが、これはとりもなおさず彼の写実的模倣にたいし向けられたものだろう。一方ゼウクシスについて言えば、現実の一人の女性に完璧な美を見いだすことができず、選別した美を絵の中に統合する。アルベルティは、「自分の描こうとするものを始終自然から採り、そしていつも最も美しいものを選ぼう」*8と主張し、画家の選別の意識を尊重する。自然の不完全性についての議論は古くからあり、例えばクセノフォーンは『ソークラテースの思い出』の中で、美しい姿を描くときには大勢の人の中から美しい部分を集め、最も美しい姿を描くと述べている。*9
アルベルティに遅れること120年あまり、ヴェネツィア生まれのLodovico Dolceは、1557年にDialogo Della Pittura Di M. Lodovico Dolce, Intitolato L'Aretino(『アレティーノまたは絵画問答』)を出版する。この絵画問答は実在した文人ピエトロ・アレティーノ(1492-1556)と文法学者のファブリーニ(1516-1580)との対話によって展開される。アレティーノは次のように主張する。
したがって画家は自然を模倣しようとするだけでなく、それを凌駕しようと努めるべきなのだ。私が言いたいのは、一部分でも自然を乗り越えると言うこと、しかしそれに到達しなくても、それに近づくだけでもすばらしいことだよ。
このことは、自然が千人もの人間の体にもめったに顕わにすることのない美の完全性が、芸術を通じてひとつの人体のうちに表されるということに見られる。なぜならば、欠けるところのない、完全な美しさを備えた人体など存在しないからだ。このことに関しては、ゼウクシスの好例がある。*10
上記の引用においてアレティーノは、アルベルティと同様にゼウクシスの例を挙げ、創造的模倣を主張する。完全な美は寸断された自然の中に散らばっている。画家の任務はそれらを発見し、統合することによって完全な美を作りあげることであり、それがアレティーノにとって自然を超えることなのである。アルベルティは寸断された美の統合方法に関して何も語らない。しかしアレティーノはラファエッロを弁護する下りで次のように述べる。
ラファエッロは二つの目標を抱いており、ひとつは、古代彫刻の美しい様式を模倣すること、もうひとつは自然そのものと競い合うことでした。それゆえ、実物を観察したら、それにいっそう美しい形を与え、自らの作品のなかで実物には存在しない完全性を求めたのです。なぜなら自然は、その美のすべてをただひとつの身体に集めるということはないからです。それらの美を多くの身体からひとつひとつ拾い集めて、それから不調和を起こさぬようにひとつの人物像の中にまとめあげること、これはほとんど不可能に近い技であります。そしてこれこそが、キケロがあちこちの文章で証言しているように、古代のフェイディアス、アペレス、その他著名な芸術家たちが実践した製作法だったと思われます。*11
アレティーノは、自然の中にある美の断片を統合し完全なる美を創造する方法をラファエッロに求め、彼のように古代彫刻を模倣することによって完成された美を学ぶことを勧める。古代彫刻には統合された理想美があるというわけだ。彼はアルベルティと同様にまずは自然の写実的模倣から始めるのであるが、芸術家の選別力の重要性、そして美の統合をさらに強調し、古代彫刻の研究の重要性を指摘する。
ドルチェに遅れること百年あまり、1664年にGiovan Pietro BelloriはAccademia di San Luca(1577年に創設)で自然美についての講演を行った。*12 その内容は題名『画家、彫刻家および建築家のイデア-自然よりも優れた自然的美の選択』が示すように、新プラトン主義的イデア論で始まる。
自然の作者である至上で永遠の知性は自らの驚嘆すべき作品を構築するにあたって、自分自身のなかを深く眺めて、イデアと呼ばれる最初の形相を造りあげた。そして、この最初のイデアによって、各々の形象は表現され、被造物の驚くべき内容が形成された。ところで、月の上にある天体は変化を蒙らず、常に美しく、秩序立っており、それゆえにわれわれは、調和ある天球と星座の光輝によって、それらがきわめて正しく、きわめて美しいことを認識するにいたる。反対に、月の下にある物体は変転と醜悪さに属している。自然は常に自らの卓越した結果を生み出そうと意図しているが、しかしながら、物体の不同性によって形態は変化し、とりわけ、人間の美は混乱する。このことをわれわれは、われわれのなかにある無限の歪曲と不格好に見ている。それゆえ、高貴な画家と彫刻家は、あの最初の職人を模倣して、精神のなかに上位の美の範例を形成し、それを眺めながら自然を修正して、色彩と線の欠点をなくすのである。*13
ここで述べられているイデアは明らかに新プラトン主義的イデアであって、画家は自らの精神で「最初の形相」(イデア)を模倣し、画布に理想美を描くのである。プラトン的イデアを肯定するならば、芸術は自然の観察によってではなく、感覚的所与を伴わない霊感(魂の直感)によって完成されるものとなるはずである。上記引用箇所の数ページ後で、ベッローリは彫刻家リュシッポスとフェイディアスを比較し、アリストテレスが主張する模倣論を遵守するリュシッポスを否定し、自然を観察せず形而上的イデアを模倣するフェイディアスを肯定する。*14 しかしベッローリは論の途中からゼウクシスやダ・ヴィンチの絵画法を例に挙げ、自然の中に散らばっている卓越した部分を選び、完全なる美(イデア)を創り出すことを勧める。さらに古代の彫刻家は驚嘆すべきイデアを用いたがゆえに、その研究が必要であると説く。「こうして、このイデアと美の神性を、古代の知恵の探求者たちは、自然的事物の最も美しい部分をつねに眺めながら、自らの精神のなかに形成したのである」。*15 こうして冒頭で彼が高々と掲げた新プラトン主義的イデアは超越的存在であることをやめ、芸術家の心に住まうものとなる。つまり真の住居はイデアの世界にあるが、理想的な美はその住居を芸術家の心に移すのである。
要約すれば自然との関係で模倣論を見るならば、4つの考え方*16があるように思われる。第一に、デメトリウスによって代表されるように、自然をあるがままに詳細に描くという方法である。自然に近づけば近づくほど、完璧な絵になるという考え方だ。第二に、自然は不完全で偶発的であり、それゆえ自然のなかの完全なる美の部分を探し出し、それらを絵のなかに統合するという考え方である。これはアルベルティによって代表される。第三に、それらの統合の仕方に関し、アレティーノがラファエッロの絵画法で述べたように、過去の巨匠の作品を研究せよという考え方が現れてくる。優れた先人の美の選別および統合方法を学ぶことによって、自然のなかにある美の部分をより良く統合でき、さらに完全なる理想美ができあがるというわけだ。そして第四に、完全なる美を描くためには、自然も過去の巨匠の作品も研究する必要がなく、画家の想像力だけを頼りにすべきであるとする考え方である。これはベッローリの引用文に登場するフェイディアスの取った立場であり、また18世紀後期においてはレノルズの『講演集』を批判したブレイクの態度*17 にも見て取ることができる。
Ⅲ
レノルズは最後の講演(1790年)で、彼がそれまで述べてきた講演を振り返り、絵画の教訓や規則に触れる。古典時代より絵画論のなかに生まれてきた様々な規則は相矛盾し、これを払拭するために次のことが必要であると主張した。
そういった難しさを一掃し、正反対の意見を和解させるためには、いわゆるより大きな真実とより小さな真実とを区別することが必要になった。自然についてのより大きな、さらに自由な考え方と偏狭で閉ざされた考え方とを、また直接想像力に訴えかけるものと視線にのみ訴えかけるものとを。この区別の結果、異なる真実が見いだされる芸術の各々の分野は、非常に大きく分けられ新しい様相を帯びるゆえに、同じ根から生えてきたものであると思われなくなるだろう。
我々の芸術を分類し直すことによって、すべての芸術家が身近にある様々なスタイルやすばらしさゆえに陥ると思われるあの当惑と混乱はある程度取り除かれ、画学生達は自身の追求に必要なものを独自で判断できるようになる、と私には思われる。*18
古典時代より築かれてきた絵画技法の規則を同じ次元に並べてみたところ相矛盾するものが多く、それらを整理する必要があるとレノルズは考えた。これは『講演集』全体に流れている彼の視点であるが、王立美術院院長になる10年前にも彼は同じ考えを述べている。
レノルズは友人であったSamuel Johnsonの依頼により彼が発行していたThe Idlerに3回寄稿(9月、10月、11月、1759年)している。最初の寄稿文にはイタリアから帰ってきたばかりの知り合いとハンプトンコート宮殿にあったラファエッロ作Cartoonsを見に行ったときのことが記されている。友人はそれらの作品を褒め称えながらも、それらにはルーベンスの色彩と調和、レンブラントの光と影がないことを嘆く。その批評にたいし、レノルズは「低い位の絵画にあって、すばらしく思えるものは高い位の絵画にあっては汚点となる」と述べる。*19 さらに結論として、「規則はすべて不必要であると言っているのではなく、緻密であること、つまり細部を盲目的にまねようとすることを非難しているのであって、それはときにより高いすばらしさと矛盾してしまうからである。」*20 2回目の寄稿文ではその考えをさらに発展させ、自然を模倣することの是非を問う。この規則は自然の事物をありのままに子細に描くことにあるのではないと述べた後、次のように断言する。
画家の長所がこの種の模倣にのみあるとするならば、絵画はその地位を失い、もはや自由科目または詩の姉妹芸術であると思われなくなるだろう。この模倣は単に技術的なものであるので、知性のない人でも確実に最も上手な絵を描くことができる。才能ある画家は知性を必要としない単調な仕事に身を落とすことはできない。絵画が想像力に働きかけなければ、詩と同じ芸術であるとどのように主張できようか。この力に才能ある画家は照準を合わせるのであって、この意味で自然を研究し、ある意味不自然であることによってしばしばこの目的に達する。*21
自然をありのままに緻密に描く規則とは古典時代のデメトリウスの手法であり、自然を想像力が働くように描く規則とは、アリストテレスが画家の裁量を認めて以来リベラル・アーツに絵画を格上げすべくルネッサンス期に興隆した理論であろう。レノルズはこの相容れない方法を「より大きな真実とより小さな真実」、あるいは「直接想像力に訴えかけるものと視覚にのみ訴えかけるもの」とに区別する。ここで問題となるのは区別の仕方と言うよりは、相矛盾するものをどのように配置したかということではなかろうか。それぞれの規則はそれが成り立つ場面があるのであって、その場面を整理し直したと解釈する方がわかりやすい。つまり規則とは「図」であり、それが成り立つ場面とは「地」ということになる。レノルズは「地」を3つの場面に分け、それらを絵画習得の3段階に割り当てたように思われる。
レノルズは2回目(1769年)と3回目(1770年)の講演で、授賞式に集まった画学生と正会員を前にして、絵画習得を3段階に分け説明する。第一の段階は絵画規則にしたがい技術を身につける時期である。正確な素描、色彩処理、コンポジションの技術を身につけ、眼前の事物を正確に模倣することにより、画家は自己を正確に表現できるようになる。この場面では眼前にある自然を写実的に描く技術、つまり緻密であること、細部を盲目的にまねることが重要視される。特に彩色の処理を学ぶときにはこの写実的模写が役に立つと、レノルズは主張する。
第二の段階は表現の内容に移行する。この時期画家がなすべきことは、時代の試練に耐え抜いた巨匠の作品を模写することであり、それによって画家は「心を解放し、労力を減らし、そして偉大な精神が自然のなかにある崇高で美しいものを選び抜いた恩恵を享受できる」。*22 しかし一人の巨匠の作品だけを丹念に正確に模倣すること、そのことだけに情熱を傾けるべきではないと注意する。「一人の巨匠だけを頑なに賛美するすることに伴う偏狭で貧しい考え方」や「好きなものだけを追い求めることから生じる停滞」*23 を避けなければならない。一人の巨匠の作品を模倣することによって、豊潤で多様な自然が閉め出されてしまうことになるからだ。多くの巨匠が自然のなかに散在する美を発見し、自分の作品に統合する術を学んだ画家は、それらの巨匠たちと同様の作品を生み出すことができるというわけだ。したがって巨匠の作品を模写する場合、「巨匠の筆致を模写するのではなく、彼らの考えを模倣しなさい。彼らの技術の足跡をたどるのではなく、彼らと同じ精神の道を歩みなさい」*24 とレノルズは主張する。ここで第一の段階で主張された写実的・盲目的模写は否定される。「画学生たちは何かをしているという雰囲気に満足する。選択せず模写し、明確な目的を持たずに励むという危険な習慣に陥ってしまう。精神の働きを必要としないので、彼は自分の作品について考えなくなってしまう。」*25 それでは「選択」と「精神の働き」とはなにか。「選択」とは自然のなかに散在している美を発見することであり、「精神の働き」とはそれら発見した美を一つの作品に統合するときに必要とされる働きであろう。しかしながらこの時期はいまだ服従と修行の時代である。
最後の第三の段階はすべての拘束から解放される時期であり、自らの理性にのみ基づいて行動する時期である。第二の段階で手本としたのは過去の巨匠であったが、ここではその巨匠と同じ位置にいる。この最後の段階では絵画を学ぶものが目を向けるべき対象は、巨匠の作品ではなく自然である。これまで学んできた巨匠と同じ立場で自然を見、「自然によって芸術を検証し、過ちを正し、不足を補い、自らの観察によって勤勉なる先達が未完のまま残したものを完成させる。」*26 第二の段階の自然は巨匠の作品を通しての自然であったが、最終段階では自らの目と精神で自然に対峙し、彼自身が理想美を創出しなければならない。ここでは絵画上のあらゆる規則から解き放たれた画家となる。
18世紀の文芸批評では、レノルズの主張する第二段階における過去の巨匠の作品を研究することと最終段階における自然を研究することは、同じことだと考えられていた。つまり第二段階と第三段階は区別されていなかったのである。Alexander PopeはAn Essay on Criticism(1711)のなかで「自然とホーマーは同一であることが分かった」*27、さらに「自然を写すことは古代の法則を写すことである」*28 と述べ、自然とはホーマー=古代の法則であると指摘している。
ポープはここで詩人ヴァージルが壮大な詩を構想したときに気づいたことを述べているのであるが、自然とは過去の巨匠によって見いだされた「筋道を立てた自然である。」*29 したがって自然を研究することと過去の巨匠の作品を研究することは同じことと述べられている。しかしレノルズにとってはこれでは先達の巨匠の囚われの身になってしまう。そこで彼はポープの指摘する筋道を立てた自然を、他者(過去の巨匠)によって筋道を立てられた自然と画家自らが発見しなければならない自然とに、つまり第二段階の自然と第三段階の自然とに分けたように思われる。レノルズは11回目の講演で、次のように述べている。
ヤング博士いわく、イリアスを模倣する人はホーマーを模倣していない。偉大な芸術家になるのは、偉大な芸術作品の部分的細部を記憶に蓄えることによってではない。偉大な芸術作品が生み出される普遍的規則に熟達しなければ偉大な芸術家にはなれない。もし彼が尊敬する芸術家と肩を並べたいのならば、それらの芸術家の作品を自然を見る真の技を教えてくれる手段として考えねばならない。*30
ここでレノルズが述べている自然は、ポープのそれとは明らかに異なる。彼にとって過去の巨匠の作品研究は、「自然を見る真の技を教えてくれる手段」にすぎない。
レノルズの絵画法を以下のように要約できる。すなわち画家になるためにまず自然のすべてを詳細に描かなければならず、この段階においては自然の事物に優劣や美醜の区別はなく、知性の介入はない。第二段階では、自然の事物は理性によって優劣や美醜の区別がなされるが、その理性は過去の巨匠のものである。第三段階にいたり、画家は自らの理性に基づき、過去の巨匠が行ったように、自然の事物のなかから優・美を見いだし、それを画布に統合する。このようにして一枚の画布にもたらされた完全なる美をレノルズは「理想美」と規定する。
Ⅳ
レノルズによれば「理想美」はイタリア語でGusto Grande、フランス語でBeau Ideal、英語でGreat Style、Genius、あるいは Tasteと呼ばれる。しかしこれはベッローリや新プラトン主義者たちが主張するように彼岸に求められるのではなく、彼にとっては此岸に求められるべきものである。
この偉大な理想的完全さと美は天上界にではなく、地上に求められるべきである。それらは我々の周囲、いたるところにある。しかし損なわれた美、言葉をかえると特異で普通でないものを自然のなかに発見する力は、ただ経験によってのみ得られる。私の考えでは、芸術のあらゆる美と壮大さは、あらゆる特異な形、一地方のしきたり、特殊性、そしてあらゆる種類の細部を除外することにある。*31
レノルズは理想美を超越的な場所にではなく、「我々の周囲」、すなわち自然に理想美を求める。しかし自然のなかにアプリオリに理想美があるわけではない。自然の事物を観察することにより、そのなかに「普通でないもの」あるいは普遍的でないものを見いだし、それらを除外することによって理想美は得られる。それゆえレノルズにとっては「経験こそすべて」*32 なのであり、この意味で彼は新プラトン主義者ではない。
自然によって我々の目に示されるあらゆる事物にはよくよく眺めれば汚点や欠点があることに気づくだろう。最も美しい形はその周りにどこかしら脆弱さ、繊細さ、不完全さといったものがある。しかしこれらの汚点を見抜けるのは万人の目とは限らない。それは長い間これらの形を凝視し比較してきた目でなければならない。同じ種に属するすべての事物が共通に持っているものを観察する長い習性によって、各事物に特に欠けているものを識別する力を獲得できるのである。この長く困難な比較こそ最高の理想美(グレイト・スタイル)を目標とする画家が最初になすべきことである。この手段によって、美しい形の真の概念を獲得するのである。自然を自然そのものによって正し、自然の不完全な状態をさらに完全な自然の状態によって正すのである。彼の目は自然の事物の偶発的な欠陥、異常、奇形をその総体的な姿から見分けることができるようになり、彼は現実の事物よりもさらに完全なる形の抽象的概念を創り出す。逆説めいて聞こえるかもしれないが、自然の事物をありのままに描かないことによって描くことの本質を学ぶのである。芸術家が理想美と呼ぶ自然の完全な状態についてのこの概念は、巨匠の作品が生み出される偉大な指導原理である。*33
自然のなかの事物に見られる不完全さはその事物の個別性(particularity)を示すものであり、それを除外することによって総体概念(general ideaまたはgenerality)、すなわち「自然の完全な状態」を画家は獲得する。前述の新プラトン主義者のベッローリと同様にレノルズも自然を不完全と考えるが、彼はベッローリのように自然から離れイデアを観想するのではなく、あくまでも自然を観察しその不完全さを見いだすことによって画布のなかに完全なる自然を再現しようとする。この点に関し、Roger Eliot Fry(1866-1934)が指摘*34するように、レノルズはアリストテレス的自然観を共有しているのかもしれない。経験によって自然のなかに特異なものを見つけることで自然が不完全であることが認識され、それを除外することで自然の完全性、すなわち理想美もしくは総体概念が得られる。これは絵画のみならずすべての芸術にあてはまる、とレノルズは主張する。「個別性」を描くことは自然を緻密に、すなわち自然の事物の持つ不完全性をそのまま模写することであり、それでは偉大な芸術は生まれない。画家は想像力(精神の力)によって「総体概念」を得る、それが絵を見る者の心を揺さぶるのである。
レノルズは、個別性を示すparticularityとそれを除外することによって得られるgeneralityの区別を若い頃から認識していたように思われる。というのも同じような考えが、王立美術院での講演が行われる10年前の1759年、Samuel Johnsonの依頼によりThe Idlerに寄稿した文章のなかに述べられているからである。その年の10月20日に寄稿した文章のなかに、レノルズは自然の細部に執着するオランダ絵画と比較し、総体概念に目を向けるイタリア絵画を絵画の最高峰に位置づけている。*35 さらにこの概念について次のように述べる。
動物ばかりでなく、植物のあらゆる種は不変で特定の形を持っていると言われる。自然はその方向に、様々な線が中心に収束するように、次第に向かっていく。あるいは異なる方向に揺れる振り子は必ず中心点を通るということに喩えられるかもしれない。*36
この視点はレノルズの友人であったSamuel Johnsonにも見られる。彼にはparticularityとgeneralityに的を絞った論考はないが、レノルズがThe Idlerに寄稿した同年にRasselas, Prince of Abyssiniaの小説の10章に似かよった考えが述べられている。山間の宮殿に住むアビシニアの王子ラセラスにイムラックは詩人の務めを次のように述べる。
イムラックは次のように言った。「詩人の務めは個々のものをではなく、それが属する種を検証することなのです。その総体的特性と大きな姿を述べることです。チューリップの縞の数を数えたり、森の緑の様々な色合いを述べたりすることではありません。詩人は自然を描写する際、すべての人の心がもとの対象を彷彿とさせるように、傑出し人目を引くような特徴を示さなければなりません。述べてもよし、述べなくてもよいような微細な相違点は無視しなければなりません。注意深い者にも不注意な者にも同じように明らかに見て取れる特徴を述べなければならないのです。」*37
「その総体的特徴と大きな姿」はgeneralityを、「チューリップの縞を数えたり,森の緑の様々な色合いを述べたりすること」はparticularityを示すものであろう。しかし後者に関して,ジョンソンには自然にたいするアリストテレス的視点はない。つまりparticularityは、レノルズのように自然の不完全性を表してはいない。レノルズにあるgeneralityとparticularityの明確な対照性をジョンソンの考えの中に見出すことはできない。レノルズにあってはgeneralityは自然の不完全性をを示すparticularityを捨象することによって得られるが、ジョンソンにはそのような関係性は成立しないのである。generalityとは「すべての人がもとの対象を彷彿とさせるような」人目を引く特徴をもたらす手段であり、particularityとはどうでもいいような事物の「微細な相違点」を示すものでしかない。両者の視点の差は,一方が画家であり,他方が作家であるということ、すなわち、絵画には描くべき明確な対象である自然が存在するが、恣意的な記号から成る言語においてはそのような明確な対象はないことから生じたものであると思われる。
ジョンソンがこれら二つの視点を詩の理論に持ち出しだのは『ラセラス』が最初ではない。それよりも9年前に、「詩は一つの種が他の種と異なるような微細な相違点をあれこれ述べるものではない。そうでなければ想像力を満たす崇高の持つ単純さはなくなってしまうからである」*38と述べている。「想像力を満たす崇高の持つ単純さ」とは、generalityがもたらす特質を指していると思われる。「崇高」と訳出した言葉はgrandeurであるが、晩年の著作The Life of Cowleyではその言葉はsublimeに変化している。
彼ら形而上詩人達の手に届くものは情緒的なものであって、崇高(sublime)ではない。というのも彼らは、一瞬にして心全体を満たす思考の把握と広がりを試みたことがないからだ。それは最初は唐突な驚きとなって、次に理性による賞賛となって現れる。崇高は集合によってもたらされ、狭小さは分散によってもたらされる。偉大な思考は常に総体的なものであり、例外によって制限されないところに、細部に堕することのない描写に存在する。……形而上詩人達の試みは常に分析的であり、あらゆるイメージを断片化した。それゆえ、弱々しい奇想や細部を積み重ねることによって、自然の眺望や人生の場面をもはや表現できなくなった。それはまさに太陽光をプリズムで分析する人は、夏の真昼の広々とした光彩を表すことが出来ないのと同じである。*39
ここでは二つの視点がより具体的に述べられている。generalityは「崇高は集合によってもたらされ」、「最初は唐突な驚きとなって、次に理性による賞賛」、「偉大な思考は常に総体的なものであり、例外によって制限されない」と述べられ、一方particularityについては、「細部に堕する」、「分析的であり,あらゆるイメージを断片化した」と説明される。細部に堕することによって分析的な内容になり、詩の与えるイメージが断片化することになる。『ラセラス』に登場するイムラックの言葉の絡みで言えば、「すべての人の心がもとの対象を彷彿とさせる」ためには、詩の与えるイメージを断片化してはならないのである。詩は崇高(sublime)なものでなければならず、そのためにはgeneralityを追求することによってイメージの統一を達成しなければならない。
V
18世紀英国において芸術、特に詩文学と絵画の分野で、sublime、generality、particularityという用語は広く論じられた。これは17世紀後半期においてLonginus作とされるPeri Hypnus『崇高について』の再評価の結果であろう。紀元1世紀頃に書かれたこの作品は欠損部分も多く、ロンギノスの作とされているものの、実のところ今なお定かではない。この作品は1554年Franciscus Robortelloによって初めてギリシヤ語の原典のまま出版された。 1636年英国オックスフォードでラテン語訳版が出版され、1652年John Hall による英訳本がそれに続いたが、それらは英国の文学界にさほど影響を与えることはなかった。それが決定的な影響を与えたのは、1674年フランスで出版されたBoileauによるフランス語訳によってである。英国ではDrydenがその作品を取りあげ、John Pulteney(1680)とLeonard Welsted(1712)による英訳本が出版されて後,英国の文学界はその書物から多大な影響を受けることになった。レノルズとジョンソン両者ともにロンギノスから影響を受けているが、ロンギノスは崇高をどのように捉えていたのだろうか。
さほど長くはない『崇高について』の多くの部分は,文章を崇高たらしめる5つの要因にしたがって、古典の作品を例にあげ、その善し悪しの判断に費やされている。しかしジョンソンおよびレノルズが影響を受けたのはそのような箇所ではない。それは、とりもなおさず,ロンギノスが崇高とは何かについて述べている部分であると思われる。
文のけだかさは読者を説得するのではなく陶酔させる。すべて、けだかく力強いものはその力で、ただ説得を求めるものやたのしみをめざすものを圧倒してしまうものだ。説得にかかわっては私たちは自分で取捨選択できる。しかし、こちらのほうは抗しがたい力で迫って来て、読者を支配してしまう。……崇高は、稲妻の一撃のごとくすべてを打ち砕いて、弁論家のありようすべてをすぐさまさらけ出し得るのだ。*40
崇高な文章は読者を納得させるのではなく、すさまじい力で一撃のもとに圧倒してしまう。ロンギノスのみならずジョンソンとレノルズにとっても「稲妻の一撃のごとく」という語句は重要である。この語句はジョンソンの作品にもレノルズの絵画論にも登場し、分析的思考やイメージの断片化を許さない象徴として使われている。分析的思考は理性による賞賛を可能にするが、一瞬にして心に作品全体の把握をもたらしはしない。ロンギノスにとって文章の崇高は読者に分析的思考を許すものではない。
すべてにわたっての正確無比はことをまるっきり小さなものにしてしまう危険を持つ。偉大なものにあっては、あまりに大きな富におけるのと同様に、何かしら見おとされるものがあって当然なのだ。程度の低い、平凡な性質が危険をおかしてまで高貴を求めようとしないのでたいてい失敗することはないのに対して、偉大なものはそれ自体がもともと失敗をやってのけるようにできている。*41
「正確無比」とは細部にわたる正確な描写を意味し、それを追求するあまり作品はそつがないものとなり、平凡なものとなってしまう危険がある。一方崇高は様々な欠点があるにもかかわらず一瞬にして作品全体の把握をもたらすために、その欠点が目立たなくなってしまう。
そうしたことのなかで、自然は、すべて常に偉大なものと私たち自身よりも高貴なものに対する抗しがたい愛を、私たちの中に植えつけるのだ。それゆえ人間のなすことのなかには、宇宙全体より広い考察があり思考がある。私たちの考えることは、しばしば私たちをとりまく宇宙の境界線を越える。生命のさまをぐるりと見まわして、それがいかに多く全体にわたって常ならぬ卓越したもの、偉大なもの、美しいものに満ちているかを知るなら、すぐさま私たち人間が生まれて来たことの意義も判って来る。*42
上記引用箇所内の「私たちの考えること」とは想像力のことであり、想像力を働かせることにより肉体としての限界を超え、「崇高は人間をほとんど神の位置にまで高める」*43 とロンギノスは主張する。これは論を単純化して言えば、芸術家の想像力の勝利であり、ロマン主義へと至る源泉となるような言葉である。新古典主義時代の規則、規律が重視されていた時代にあって、レノルズはこの考え方にたいし、どのような反応を示したのであろうか。
VI
ロンギノスは、崇高という言葉によって、芸術家の想像力の無限の可能性を説いた。レノルズはアンニーバレ・カラッチの言葉を借りて、次のように述べている。
非常に多くの部分からなる絵は、崇高に不可欠な効果、すなわち完全な統一体のもたらす効果を生み出すことはできない。多くの小さな部分が崇高なものを創り出すことはないということは、幾何学においては矛盾するかもしれないが、美的感覚においては矛盾しない。崇高はたった一撃にして一つの偉大な概念で心を揺さぶる。優雅さは反復によって、多くの取るに足らない細部の集積によってもたらされる。*44
ここでは「完全な統一体」と崇高は同一のものとして述べられている。レノルズにあっては崇高とgeneralityは同じことなのだ。ロンギノスにおいてはgeneralityは崇高に到達する手段に過ぎないが、レノルズにあっては手段ではなく目的そのものとなっている。それゆえレノルズにとっては、崇高、自然の総体的概念、Grand Styleという言葉は同じ地平にある。
絵画における崇高は,詩においてのように,心全体を圧倒し捉えて放さないので,些細な批評に注意を向ける余地などなくなってしまう。そのように見事に表現されたこういった偉大な概念の前にあっては芸術の些細な美しさなど、すべての価値を失い、たちまちにして注意を喚起する価値などないものであると感じてしまうのだ。ラファエッロの特質である正しい判断と美的感覚の純粋さ、コレッジョとパルミジャニーノの非常に美しい優雅さはすべてその前では消え失せてしまう。*45
崇高概念と総体概念を同一のものと見なすことにより、レノルズはミケランジェロと当時模範とすべき画家と思われていたラファエッロとを比較する。
これら二人の偉大な画家を比較してみると、ラファエッロは美的感覚と空想力に恵まれ、ミケランジェロは才能と想像力に恵まれている。一方は美に優れ、他方は力強い表現力に優れている。ミケランジェロにはさらに詩的インスピレーションがあり、彼の概念は広大で崇高である。*46
さらに
それゆえラファエッロとミケランジェロ、どちらが優れた画家であるかという問いには、絵画のより優れた特質を自由に組み合わせることができた画家こそ優れているということになれば、疑いなくラファエッロが頂点に立つことになろう。しかしロンギノスが考えていたように人間が創り出したものの中で最も卓越した特質である崇高が他のあらゆる美の欠如を十分補うものだとすれば、ミケランジェロこそ優位に立つ。*47
レノルズは王立美術院院長を辞する最後の講演で、「私がこのアカデミーで発する最後の言葉はミケランジェロである」*48と述べ、講壇を降りた。ラファエッロ一辺倒であった当時の画壇においてこの言葉を発することは勇気を必要とすることであったに違いない。しかし18世紀初頭に英国にもたらされたロンギノスを読むことにより、レノルズは崇高、総体的概念(理想美)、Grand Styleこそ画家の目指すべき対象であり、それによって絵画は判断されなければならないと確信したように思われる。
*1
William Aglionby, Painting Illustrated in Three Diallogues (1685)
Jonathan Richardson, An Essay on the Theory of Painting (1715)
William Hogarth,: The Analysis of Beauty (1753)
Charles-Alphonse Du Fresnoy, De arte graphica (1668)
The Art Of Painting (1695) translated by John Dryden
*2 Dictionary of the history of ideas : studies of selected pivotal ideas, vol.3, edited by Philip P. Wiener, 1973-1974, p.226
*3パノフスキーによるプラトンの芸術論を以下に挙げておく。(E.パノフスキー、『イデア』、平凡社、2004、pp.21-22)
・・・プラトン哲学はやはり、芸術に敵対するとは言わないまでも、芸術に疎遠なものと呼ばれるにふさわしいものであった。それにまた、プロティノスを筆頭に、ほとんだすべての後継者たちが「模倣的」芸術に対するプラトン哲学の数々の攻撃のうちに、造形芸術そのものに対する全面的な呪詛を読みとってきたのも当然と言えるだろう。プラトンは彫刻や絵画作品の価値をはかる尺度として、それらとは異質な認識上の真理という概念、すなわちイデアとの合致という概念をもちだしてくる。そのために、彼の哲学大系のなかには造形芸術の美学を「独自の」(sui generis)精神領域として受け入れる余地はありえなかったのである。
*4 「世界の名著、第8巻」(中央公論社、昭和50年)、p..226 p.346
*5 ibid., p.300
*6 Dictionary of the history of ideas : studies of selected pivotal ideas, vol.3, p.226
*7 F.B.Blanshard, Retreat from Likeness in the Theory of Painting (Columbia University Press, New York, 1949), pp.38-39
*8 アルベルティ、『絵画論』(中央公論社、平成4年) pp.67-68
*9 クセノフォーン 『ソークラテースの思い出』、(岩波文庫、昭和28年)、p.156
*10 ロドヴィーコ・ドルチェ 『アレティーノまたは絵画問答』(森田義之・越川倫明、中央公論美術出版社、2006) p.59
*11 ibid., p.140
*12 この講演内容は後にLe vite de' pittori, scultori et architetti moderni (Roma, 1672, vol.Ⅰ)の巻頭に収められた。
*13 E.パノフスキー、『イデア』(平凡社、2004) p.200
*14 ibid., p.203
*15 ibid., p.213
*16 R. Wittkower、Aspect of the Eighteenth Century (The Hopkins Press、1965) pp.144-5
*17 レノルズの『講演集』の余白に書き入れたブレイクの批評は下記を参照のこと。
The Complete Poetry & Prose of William Blake, edited by David V. Erdman(Anchor、1988)、p.648
*18 Discourses on Art by Sir Joshua Reynolds, edited by Robert R. Wark(1997)、p.268-9
*19 The Idler、No.76, 1759
*20 ibid.
*21 ibid., No.79, 1759
*22 Discourses., p.101
*23 ibid., p.26
*24 ibid., p.30
*25 ibid., p.29
*26 ibid., p.27
*27 An Essay on Criticism by Alexander Pope, part.1. line.135
*28 ibid., line.89
*29 ibid., line.89
*30 Discourses, p.307
*31 ibid., p.44
*32 ibid., p.44
*33 ibid., pp.44-45
*34 Discourses delivered to the students of the Royal Academy by Sir Joshua Reynolds, kt. With introductions & notes by Roger Fry, (Seeley & Co., 1905), p.41
「アリストテレスにおいては、自然は完全な形を常に造りあげようとする芸術家のようなものである。しかしそれは物質の不動性によって、たまさか阻害されるのである。芸術家はその偶然に覆い隠された形を解き放ち、自然が意図したようにそれを顕わにする。」
*35 Idler, no.79, October 20, 1759
イタリア絵画は全自然のなかに確固として存在する不変なるもの、偉大で総体概念にのみ目を向け、一方オランダ絵画は不完全な自然の細部を文字通り模写することに注意を向ける。こういった取るに足らない個別的なものに注意を向けることは、オランダ絵画では実物に似ていることが非常に尊重されているからである。しかしそれを美しいとするならば、それは低いランクのもので、より高い美に座を譲らなければならない。
*36 ibid.
*37 Rasselas, Prince of Abyssinia, Samuel Johnson, vol.1 (Elliot Stock, 1884) pp.68-69
*38 The Rambler, No.36, Saturday, July 21, 1750
*39 Samuel Johnson, The Lives of the most eminent English Poets, 1790, pp.31-32
*40 小田実訳、『崇高について』(河合文化研究所、1999年) p.79
*41 ibid., p.163-4
*42 ibid., p.170
*43 ibid., p.171
*44 ibid., p.65
*45 Discourses, p.276
*46 ibid., p.83
*47 ibid., p.84
*48 ibid., p.282
関連サイト
・William Aglionby, Painting Illustrated in Three Diallogues (1685)
・Jonathan Richardson, An Essay on the Theory of Painting (1725)
・William Hogarth, The Analysis of Beauty
・The Art Of Painting (1695) translated by John Dryden
・Dictionary of the history of ideas : studies of selected pivotal ideas, vol.3
・R. Wittkower, Aspect of the Eighteenth Century
・An Essay on Criticism by Alexander Pope
・Rasselas, Prince of Abyssinia, Samuel Johnson
・Samuel Johnson, The Lives of the most eminent English Poets
・The Rambler, No.36, Saturday, July 21, 1750