SIR JOSHUA REYNOLDSのミケランジェロ再評価について
高倉 正行
ロンドンの王立美術院初代院長サー・ジョシュア・レノルズは在任中毎年Summer Exhibitionの時に美術院会員や画学生に向けて講演を行った。通算15回行われた講演の内容はその後活字にされ、Discourses(『講演集』)という名のもとに一冊の書物にまとめられた。その書物の特徴は大きく分けて2つある。一つは絵画習得を3段階に分けて説明していることであり、もう一つはラファエロ一辺倒であった当時の画壇に向け、ミケランジェロを再評価していることである。本論ではレノルズがミケランジェロを再評価するに至った側面から彼の芸術観を述べてみたい。
Ⅰ
ミケランジェロ(1475-1564)とラファエッロ(1483-1520)の評価の優劣に関しては長い歴史がある。前者を優位に置くものとして最も有名な絵画論は1550年に世に現れたジォルジォ・ヴァザーリ(1511-1574)作『画家・彫刻家・建築家列伝(Le Vite dei piú excellenti pittori scultori ed architettori)であろう。それ以前にもたとえばパオロ・ピーノ(Paolo Pino、1534-1565)作『絵画問答』(Dialogo di pittura 1548年)、ミケランジェロ・ビオンド(1500-1570)作『この上なく高貴な絵画について』(Della nobilissima pittura 1549年)などの絵画論があったが、三人ともミケランジェロを優位に置いている。これら3人の絵画論に共通して言えることは、絵画を3つの要素である素描・色彩・画面構想から考察し、その中でも素描が最も重要であると考えているということである。ミケランジェロの素描力に関しては、彼を否定する批評家たちも認めていたことであり、それは万人の共通した認識であった。ヴァザーリがミケランジェロを賛美したことは周知*1のことであるが、当時この意見が多勢を占めていた。
他方ラファエッロを優位に置く批評家も現れた。その先陣を切ったのが、ロドヴィーコ・ドルチェ(Lodovico Dolce 1508-1568)であり、彼は1557年に『アレティーノ――または絵画問答』(Dialogo della pittura di inititolato l'Aretino)を出版した。この絵画問答はミケランジェロを賛美するファブリーニとラファエッロを優位に置くアレティーノの対話によって進行するが、ドルチェがアレティーノ側にたっていることは明白である。アレティーノも同じく絵画を3つの要素に分け、素描力についてはミケランジェロが勝っていることを認めているものの*2、他の2つの要素に関してはラファエッロが優れていると述べる。
『絵画問答』のフランス語版の序文で、ローリアーヌ・ファレイ・デストは、アレティーノのミケランジェロにたいする否定的態度には、2つの源泉があると指摘している。*3その第一はミケランジェロの作品に見られる慎み深さの無さにたいするもので、この否定的態度はカトリック改革という時代背景の中で現れたとするものである。第二はアレティーノのミケランジェロに対する個人的な恨みから生まれたものであると説明されている。さしずめ後者の源泉は本論では必要ない。アレティーノがミケランジェロの作品にたいし「慎みの無さ」と評したその背景を探ることが重要である。
アレティーノのミケランジェロにたいする非難は、主にシスティーナ礼拝堂に描かれたミケランジェロ作『最後の審判』に向けられている。彼は、聖なる場所に、裸で抱き合う男女や悪魔が大男の睾丸をつかんで引きずり降ろそうとしている絵を描いた節操の無さを指摘している。ドルチェとアレティーノは、ミケランジェロの圧倒的な素描力を認めているものの、画面を埋め尽くさんばかりの似通った裸の群れ、色彩の不快さに、すなわちミケランジェロのマニエリスムに異議を唱える。彼がこれに対置し称揚するのは、ラファエッロの絵の適切さ・優雅さである。この点に関し、先に挙げたローリアーヌは次のように述べている。
著名な先駆者にならって彼が展開する絵画理論のさまざまな箇所から、彼(ドルチェ)が参照しているのが、初期ルネッサンスの絵画論、アルベルティの『絵画論』、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿であることがわかる。つまり、ドルチェは最もアカデミックな古典的規範に立ち戻るように主張しているのであり、人文主義者によって確立された分類を何よりも優先しているのである。自然の模倣、古代作品の尊重、「物語(istoria)」の首尾一貫性、適切さ、作品と場所の適合性、素描の優位と輪郭としての形態の絶対的価値がそれである。*4
アレティーノは、ミケランジェロばかりでなく、マニエリスムの原義であるmanièra(手法)を揶揄的に使い、彼の模倣者達をも断罪し、一方ラファエッロの古典主義を称揚する。マニエリスムの過剰さにたいして、アレティーノは古典を模範とする節度と調和を唱えたわけだ。ミケランジェロを頂点とするマニエリスムは今少し続くことになるが、カトリック改革とともに古典主義が重視され、ラファエッロがアカデミーの中で最も優れた範例になっていく。
Ⅱ
ミケランジェロがこの世を去って13年後の1577年に、ローマにアカデミア・ディ・サン・ルカ(Accademia di San Luca)が創設された。この絵画学院はフェデリコ・ツッカリ(Federigo Zuccaro、1542/1543-1609)の指揮のもとに設立されたもので、その会員の中にジョヴァンニ・ピエトロ・ベッローリ(Giovanni Pietro Bellori、1613-1696)がいた。彼は画家および古物収集家であったが、1672年に出版された『現代画家・彫刻家・建築家伝』(Le vite de' pittori, scultori et architetti moderni)によって伝記作家、絵画理論家としての名声を得た。この著作は彼の友人であったフランス人画家ニコラ・プッサン(1594-1665)の助力によって完成したのだが、その中でベッローリはミケランジェロの絶対性を否定し、ラファエッロを優位に置いている。*5彼は1648年フランスに設立された「王立絵画・彫刻アカデミー」に大きな影響を与えたと言われている。
フランスにラファエッロの作品が初めてもたらされたのは、フランス国王フランソワⅠ世(在位 1515-1547)の時であった。メディチ家出身教皇レオ10世は、1518年にラファエッロに『聖家族』(Holy Family)を依頼し、フランソワⅠ世の王妃クロード・ド・フランスに贈り物として捧げたのである。その絵がフランスにもたらされて以来、フランス国王はラファエッロの他の作品を収集しはじめたが、だからと言ってその後すぐさまフランスでラファエッロ熱が高まったわけではない。集められたラファエッロの作品は王家コレクションに納められたが、それらは一般に公開されることはなかったからである。
その後百十数年を経て、1643年に即位した太陽王ルイ14世の時代に、フランスの芸術界に大きな変革がもたらされた。1642年に、ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin、1594-1665)とシャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun、1619-1690)がローマに赴き、その4年後独り帰国したル・ブランは『王立絵画彫刻アカデミー』(Académie Royale de Peinture et de Sculpture)の設立に尽力し、その2年後の1648年、国務評定官マルタン・ド・シャルモア(Martin de Charmois、1609-1661)の助力を得て、アカデミー設立を果たした。アカデミーの設立には大きく二つの目的があった。一つは画家のギルドからの解放であり、今一つは王権の威光をたたえるための絵画の作成である。最初の目的を達するためには徒弟制度を廃し、絵画を自由学芸に昇格させるための絵画理論の確立が急務であり、他方王権を称えるためにはそれにふさわしい作品の制作が必須であった。これら2つの目的を成し遂げるため、1666年に、フランス国王ルイ14世は在ローマのフランス・アカデミーの設立を認可した。
Jean-Baptiste Colbert(1619-1683)、Charles Le Brun(1619-1690)そしてGian Lorenzo Bernini(1598-1680)の指導のもとに設立された在ローマのアカデミー・ド・フランスは、祖国フランスのアカデミーでローマ賞(Prix de Rome)を獲得した学生たちに3年から5年間給費生としてローマで絵画研究に従事することを許可した。彼らに求められたのは、自己の技術を磨くための古代彫刻とルネッサンス絵画の模写、およびパトロンであるルイ14世の宮殿を飾るためのルネッサンス期巨匠の作品(主にラファエッロ)の完全模写であり、その対象はヴァチカン宮殿のラファエッロのフレスコ画やローマ近郊にあるファルネシーナ別荘(Villa Farnesina)を飾っている彼の作品群であった。これらの模写作品は祖国フランスに送られ、フランスにおけるラファエッロ熱をさらに高めることになる。
絵画理論の面から見れば、17世紀末フランスには2つの大きな流れがあった。それらは絵画要素の一つである構図(デザイン)を主要な要素とする一派と色彩をそれよりも重要視する一派である。*6 前者はアカデミー総裁シャルル・ル・ブランのニコラ・プッサン(Nicolas Poussin 1594-1665)称賛派であり、後者は反アカデミー派でありながら後にアカデミーに加わったロジェ・ド・ピール(Roger de Piles 1635-1709)達のルーベンス(Peter Paul Rubens 1577-1640)称賛派であった。この2つの流れは、ラファエッロおよびミケランジェロをどのように評価していたのであろうか。
アカデミー派のラファエッロ評価は、国務大臣のジャン=バティスト・コルベールの要請により開かれた講演会に明らかである。その講演は1667年3月から12月まで計7回アカデミーにおいて行われ、講演ごとに一つの作品を選び、それについて講義し討論するという形式で進められた。その中で、ラファエッロが取り上げられているのは2回、ミケランジェロについては一度も取り上げられていない。ラファエッロについては1667年5月7日に開かれた第一回目の会議でル・ブランの選定したラファエッロの『大天使ミカエルと悪魔』が、さらに同年9月3日の第三回目の会議ではピエール・ミニャール(Pierre Mignard 1612-1695)が選定した『聖家族』(であると思われる)が取り上げられ、それぞれラファエッロの両絵の構図、色彩、明暗のすばらしさが称賛されている。*7
一方、アカデミーと対立していたロジェ・ド・ピール(1699年に「名誉評定官」(Conseiller Honoraireとしてアカデミーに受け入れられた)は、著書『絵画原理講義』(Cours de peinture par principes avec un balance de peintres、1706)の中で絵画を4つの側面(構図、素描、彩色、感情表現)から評価し、古今の画家を点数化した。ド・ピールが賞賛するルーベンスは構図18点、素描13点、彩色17点、感情表現17点と最高得点である。彼がラファエッロの作品にたいしてつけた点数は構図17点、素描18点、彩色12点、感情表現18点であり、総合点はルーベンスと同じである。*8 ラファエッロの彩色点数が低いが、これは、英国の画家Jonathan Richardsonが指摘するように、ヴァチカン宮殿に置かれているラファエッロの作品の年月による色彩の劣化や飾られている部屋の採光の悪さが原因であると思われる。*9興味深いのはミケランジェロに対する評価で、構図8点、素描17点、彩色4点、感情表現8点と非常に低い。*10 このように17世紀のフランスのアカデミーではミケランジェロよりもラファエッロにたいする評価の方が高かったのである。それゆえこの2つの流れは、絵画要素の評価に差があるけれども、どちらもラファエッロに軍配をあげたのである。また画家ではなかったが、絵画・建築の理論書を書いたRoland Fréart de Chambray (1606-1676)は、Idée de la perfection de la peinture(1662)のなかで、ラファエッロを「天使の画家」、ミケランジェロを「悪魔の画家」と呼び、ミケランジェロにたいするきびしい評価を展開した。*11
一方イギリスの同時代人の両画家にたいする評価に目を向けると、1685年、美術史家のウィリアム・アグリオンビー(William Aglionby、1640-1700)がベッローリの影響下に『絵画をめぐる三篇の対話』を著わし、激しい口調でミケランジェロを否定し、ラファエッロを評価した。
ミケランジェロ・ビュオナロッティは最も偉大な素描家であり、細心の注意を払って裸体を研究した。彼は、体のねじれや、筋肉の微動、神経の収縮などにおいて、芸術の最も困難な技を示すことを常に目指した。彼の絵画は、他のどの絵画よりもはるかに深遠で、難解であるものの、さほど快いものではない。彼の作風は激しく、粗野とも言えるほどで、ラファエッロの優雅さは全くない。ラファエッロの裸体は優美で柔らかく、さらに血が通っているように思われる。一方ミケランジェロは性別や年齢をさほど上手に区別せず、彼の描く人物はすべて筋骨たくましく、強健な体つきである。一人の裸体を見れば、すべての裸体を見たと言えるかもしれない。彼の色彩はラファエッロほど自然に近いとは言えない。要するにヴァザーリはミケランジェロを神のごとく称賛するが、彼は画家というよりは優れた彫刻家であった。ラファエッロとミケランジェロの性格は正反対といえるものであった。両者とも優れた素描家であったが、一方は芸術の困難な技を示すことに努力し、他方は流暢さを目指した。おそらく後者の方が遙かに難しいであろう。*12
彼はミケランジェロの素描力を評価するが、裸体の描き方にたいしては否定的である。ここにはドルチェの『絵画問答』の影響が見られる。上記引用文の中の「体のねじれや、筋肉の微動、神経の収縮などにおいて、芸術の最も困難な技」とはアレティーノが言う短縮法のことで、ミケランジェロは裸体像を描く際に確かに最も困難な技である短縮法を遺憾なく発揮した。アレティーノはミケランジェロの裸体像について、次のように述べる。
たしかにミケランジェロは裸体像に関してはすばらしく、真に驚嘆すべきで、人間技を超えている。この点で彼を凌ぐ者はいまだかつていないが、ただそれはたったひとつの流儀においてなのだよ。つまり、短縮法と激烈な動きによって、筋肉質の複雑に凝った裸体人物を描くことで、あらゆる超絶技巧をいかんなく示しているのだ。彼の人体のあらゆる部分とその全体は実に卓越した出来栄えで、これ以上優れたもの、これ以上完璧なものは、描くことはおろか想像することもできないぐらいだ、と言っても言い過ぎではない。
しかし、他の流儀においてはとなると、ミケランジェロは自分自身に劣るばかりか、他の者にもひけをとっている。なぜなら、彼は能力がないのかその意志がないのか、すでに話したような年齢や性別による相違を表そうとしない。その点ではラファエッロは実に見事なのだが。一言でいえば、ミケランジェロの人物像は、ひとつを見ればすべてを見たのと同じなのだ。注意しておくべきなのは、ミケランジェロは最も激烈で複雑に凝った裸体の形態を描いたのに対し、ラファエッロは最も魅力的で優雅な形態を描いた、ということなのだよ。*13
ドルチェはアレティーノとファブリーニとの対話によって『絵画問答』を展開していると同様に、アグリオンビーは旅行者とその友人との対話によって絵画論争を進める。この両者のミケランジェロにたいする評価は似通っている。彼の裸体像はこの上なく優れているが、人物像の視点から見れば、彼は強健な裸体像しか描かなかったという点で非難の対象となり、一方ラファエッロは優雅で多様な形態を描いたという点で称賛される。ドルチェが『絵画問答』の出版後、ヴァザーリの主張するミケランジェロの画家としての優位性はラファエッロに奪われ、この傾向は18世紀中葉まで続くことになる。
Ⅲ
英国にはフランスのようにイタリアとの直接的なつながりはなかった。また英国王室にも両巨匠の作品はほとんどなく、それゆえ、ルネッサンス盛期の絵画を見るには直接イタリアに渡らなければならなかった。しかし、18世紀前後の時期に英国に大きな変化が現れる。それは、ラファエッロのCartoons(原寸大下絵)の公開である。この絵は本来ローマ法王10世の依頼でシスティーナ礼拝堂の壁を飾るタペストリー用に描かれた下絵であった。1515年から1516年にかけて描かれた10枚のその下絵は、ブリュッセルのピーテル・クック・ファン・アールスト(Pieter Coecke van Aelst 1502-1550)の工房に送られた後、長い間忘れ去られていた。だがこのCartoonsはイタリアのジェノバで1620年にルーベンスによって発見された。彼は親交のあった英国王チャールズ1世(当時まだウェールズ皇太子で、即位は1625年)に購入を勧め、その結果7枚のCartoonsが英国にもたらされたのである。その時にはすでにタペストリーを作るために縦短冊状に長く切られていたそれらの下絵は、纏められて木製の箱に収納され、ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウスに置かれた。その後、清教徒革命によってチャールズ1世は処刑され、王宮に保管されていたほとんどの美術品は売却されたのだが、ラファエッロのCartoons7枚は残された。王政復古の後それらは王室コレクションに戻され、17世紀の終わり頃ウィリアム3世(在位1689-1702)治世時に再び元の下絵の形に接着され、1699年にハンプトン・コート宮殿で公開された。*14 この公開は英国絵画に決定的な影響を与えることになる。
だが最初にラファエッロ讃美の声が聞かれたのは、絵画の分野においてではなかった。1703年に、ウィリアム3世とアン女王に仕えた医者兼詩人のRichard BlackmoreがCartoonsを見て、それぞれの絵につき一つの詩、つまり7つの詩を書いた。*15 その詩集の冒頭で、彼はラファエッロを称え、
見知らぬ人よ ここにとどまれ この部屋に立ち
偉大なラファエッロの手による奇跡を見よ
彼の技はすべての芸術家を支配する
彼らは肉体を描くが 彼の人は魂を描く*16
と歌った。しかしこの詩が影響を与えたのは絵画ではなく、宗教の分野であった。*17
絵画の分野においてCartoonsの版画で最初に成功を収めたのは、英国の画家ではなくフランス生まれのHuguenot Simon Gribelin(1661-1733)である。当時英国はまだ優れた版画家を輩出できる状態になかった。1690年代フランスはスペインの王位継承の問題で、英国を含む他のヨーロッパ諸国と良好な関係になく、スペイン継承戦争(1701-1714)が始まると英仏両国の交通は途絶えてしまうのだが、グリベリンはその前の1680年代に英国に渡り、生涯英国の地で暮らした。1693年にChrales Le Bmn作The Tent of Dariusの版画で名声を得た彼は、1707年ハンプトン・コート宮殿に収蔵されていたCartoonsの版画を制作し、大きな反響を呼ぶのである。続いて1711年渡英したフランスの版画家Nicolas Dorigny(1658-1746)もCartoonsの版画に着手する。彼はローマでビラ・ファルネジーナを飾っていたラファエッロのキューピッドやプシュケーの連作や『キリストの変容』を版画にし、すでに名声を博していた版画家であったが、アン女王からハンプトンコート宮殿の一室と生活に必要な品々の援助を得、翌年からCartoonsの版画制作に着手する。1719年に完成した画集はPinacotheca Hamptonianaと題されてジョージ1世に献上され、ラファエッロのCartoonsはこの二人のフランス人版画家によって英国で広く知られるようになった。
しかし、英国人画家のなかでCartoonsに初めて深く影響を受け、また後続の画家たちに大きな刺激を与えたのは、John Shearman*18 の指摘するように、英国人肖像画家Jonathan Richardson(1665-1745)であったと思われる。彼は肖像画家、素描の収集家にして絵画の批評家でもあり、数冊の絵画理論書を著した。彼の絵画理論は先行するアグリオンビーのそれとは趣を大きく異にする。アグリオンビーは「貴族もしくは紳士階級」向けにイタリアやフランスの絵画理論を対話という形で易しく紹介するものであるのにたいし、リチャードソンの最初の著作An Essay on the Theory of Painting(1715)はエッセイという形を取ってはいるものの英国初の画家自身が書いた本格的な絵画理論書であり、少年であったジョシュア・レノルズに大きく影響を与えたと言われている。*19
絵画の分析を始めるにあたり冒頭で絵画の特質を述べているが、リチャードソンは過去の絵画論において頻繁に引用されてきたホラティウスの「詩は絵のように」を否定する。
言葉は非常に不完全なものだ。名付けることのできない色彩や形は数限りなくある。さらに無限の概念があり、その中には誰もが明示していると納得できうるような言葉を持たないものもある。一方画家はこういったものの概念を明確に、かつ曖昧さを入り込ませず伝えることができる。画家が伝えることを誰もその意図通り理解する。*20
絵画と言葉からなる詩は姉妹芸術*21として長い間論じられてきたが、リチャードソンはこれを否定する。さらに彼は、「絵画は言葉と比べもう一つの利点がある。つまり絵画は私たちの心に概念を注ぎ込むが、言葉は滴らすにすぎない。絵の全場面は一目で分かるが、他方は少しずつカーテンを開けていくだけだ。」*22と述べ、絵画が優れていることを主張する。彼の絵画に対する考え方は、ロジェ・ド・ピールと同様に、ラファエッロのカスティリオーネ伯宛の手紙に見いだされる自然の改善を重要視するものである。*23
リチャードソンの絵画理論は先行するフランスの「王立絵画彫刻アカデミー」の理論に共通する部分か多い。ド・ピールは絵画の構成要素を構図、素描、彩色、感情表現の4つに分けたが、リチャードソンは「Invention(創意工夫)、Expression(表現)、Composition(構図)、Drawing(素描)、Colouring(彩色)、Handling(ハンドリング)、Grace and Greatness(優美さと偉大さ)」の7つに分け、それぞれの視点から絵画を考察する。それら7つの構成要素はド・ピールのそれをさらに細分化したものと言ってよいが、彼はこれらのすべてにおいて主にラファエッロのCartoonsを模範としてあげ、そのすばらしさを強調する。特にその作品にたいする画家の賛意は、An Essay on the Theory of Painting (1715)の最終ページに自らが取り上げたラファエッロのCartoons作品群とそのページ数を列挙していることからも判断できるだろう。*24
リチャードソンはさらにそれらの作品が置かれているハンプトン・コートに関し、次のように称賛する。
ハンプトン・コートはラファエッロの偉大な学堂である。我々の近くにそのように計り知れない貴重な天恵をもたらしてくださった神に讃えあれ。Cartoonsがその場所にとどまり続け、常に見ることができますように。無傷のまま、朽ちることなく、それらの絵の材質が赦す限り。*25
リチャードソンはまた1722年に出版されたAn Account of some of the Statue, Bas-relief, Drawing and Pictures in Iyaly, &c with Remarksにおいて、バチカン宮殿のラファエッロの作品とハンプトン・コートのCartoonsとを比較し、バチカン宮殿におけるラファエッロ作品の展示の仕方や保存状態の劣悪さを指摘し*26、ハンプトン・コートにおけるラファエッロ作品のすばらしさを強調している。*27
先に取り上げたリチャードソンの絵画にたいする7つの視点のなかで、最初の6つの視点は先行する他の絵画理論と変わり映えがしないが、最後の「優美さと偉大さ」には彼独自の視点が伺える。初めの6つの視点は絵画の構成要素の分析であるのにたいし、最後の「優美さと偉大さ」は構成要素ではなく、上記6つの視点すべてを覆う概念と考えられる。 というのも「優美さ」と「偉大さ」は6つの構成要素それぞれに当てはまるからである。 リチャードソンは自身の最初の絵画理論書An Essay on the Theory of Painting (1715)の冒頭でオランダおよびフランドルの絵とイタリアの絵を比較し、イタリア派は自然を目に映るがまま模倣しているのではなく「高め、改良している」*28という点て、より優れているとしている。
画家は自分の概念によって目に見えるものを超え、自然の中に見られない完成の模範を心のうちに形作らなければならない。しかしそのような模範は妥当性があり、理性的なものでなければならない。特に画家は想像できうる限り美しい、優雅な、威厳を持った、完璧な人間を描くことによって、いわば全人間を高めなければならない。すべて描かれる人物は、善人であれ悪人であれ、優しい人であれ、嫌悪すべき人であれ、より強くより完全な人でなければならない。*29
リチャードソンにとって卓越した絵を描く方法は他の6つの要素で述べられ、「人間を高める」絵画の働きは最後の「優美さと偉大さ」で述べられる。ラファエッロの多くの作品のなかでも、そのような働きを持った作品がハンプトン・コートにはあるとリチャードソンは断言し、またもやCartoonsのすばらしさを強調する。*30 古代の芸術家はその2つの特質を持っていたのであり、その中でもアペレスは「優美さ」の点で名高く、ラファエッロを「現代のアペレス」と彼は名付ける。しかし「偉大さ」の最高峰に立つのはミケランジェロであり、彼のスタイルは彼独自のもので、古代の作品の影響を受けてはいないと、述べる。*31 フランスの17世紀アカデミーにおいてほとんど言及されなかった、あるいは否定的な意味で言及されたミケランジェロが、「偉大さ」という特質において2世紀あまり経た英国でようやく登場することになる。
An Essay on the Theory of Painting (1715)のなかでミケランジェロが最も多く扱われている箇所が「Of the Sublime(崇高について)」の項目*32 である。 リチャードソンは絵画の7つの要素からその項目を除外し、最後の要素の「優美さと偉大さ」の後にその項目をおいた。彼が何故この項目を絵画の構成要素に含ませず独立して述べたのか定かではないが、おそらく「優美さと偉大さ」を執筆しているときに、この項目について述べることが必要だと感じたからであると思われる。というのも「優美さと偉大さ」こついて述べている箇所で、ロンギノス(Longinus)*33 の名前が一度登場し、彼の著作『崇高について』を当時リチャードソンが読んでいたことが断定できるからだ。*34 リチャードソンはラファエッロについては至る所で称揚し、一方ミケランジェロに関しては「偉大さ」の項目でごく短く称賛した。ロンギノスを援用すれば、ミケランジェロの偉大さをさらに説明できると、彼は確信したに違いない。
リチャードソンは「崇高について」の項目のなかでロンギノスの『崇高について』を手掛かりにして、ミケランジェロ讃美を繰り広げる。しかし当時英国にはミケランジェロの作品は模写を含めほとんどなく、彼の作品を見るにはイタリアへと行かなければならなかった。リチャードソンは海外に一度も出たことはなく、したがってこの項目で取り上げているミケランジェロの作品は「聖ペテロの殉教」の一作品、それもバチカンのパオリーナ礼拝堂にあるフレスコ画の複製素描でしかない。この項目の冒頭でリチャードソンはロンギノスから着想を得て、崇高の特質を次のように述べる。
ロンギノスによれば、ヒュペリデスには欠点がなく、デモステネスには多くの欠点があった。しかしデモステネスを一度でも読んだことがある人ならば、その後ヒュペリデスを味わうことはできなくなったであろう。というのも、あらゆる長所を持つヒュペリデスは決して凡庸さを免れることはなかったが、デモステネスはいくつかの長所を傑出して持っていたからだ。これがロンギノスの判断によるものかはさておき、確実に言えることは、多くの良い特質をほどほどに持っていれば誹りを受けることはないであろうが、大いなる喜びを与えはしないだろう。一方崇高が見受けられるところには、多くの不完全な点があっても、魂を捕らえ奪い去るものがある。心は充たされ満足する。何ものも欠けているようには思われず、間違ったものは何もないように思われる。あるいは何かあったとしても、すぐさま忘れ去られる。*35
それ故、画家は欠点を避けることに、程々にこなすことに満足すべきではない。画家は喜ばせることだけに専心するのではなく、驚かせなければならない。これこそ私が喜びをもって(というのも、彼らの名を口にすることは彼らのいくつかの作品を私の心に蘇らせてくれるからだ)頻繁に述べた偉大な画家たちのなしたことである。欠点が皆無であるという点でラファエッロほど卓越した画家はいなかった。しかしこの崇高の力の点で、ミケランジェロほど卓越した例はない。彼は素描に崇高を、そして偉大さを持っていて、芸術の神童と考えられており、今後もそのようにみなされるだろう、このようなすばらしさに悪名高い欠点が混在しているにもかかわらず。*36
冒頭のヒュペリデスとデモステネスとの対比はロンギノスの『崇高について』の34番目から取られている。ロンギノスは弁論および修辞について述べたのだが、リチャードソンはそれを絵画に転用し、欠点をなくすことよりも崇高であることを目指すべきだと主張する。まさにロンギノスの言葉は『アレティーノ-または絵画問答』以来貶められてきたミケランジェロの復権をもたらす言葉であると、リチャードソンは確信したに違いない。
しかし彼のミケランジェロ讃美も、10年後の1725年に出版された第2版では陰りを見せる。7つの構成要素の説明に関しては大きな変化はないが、「崇高について」の項目は全体的に変更され、絵画における崇高についての説明は断念したかのように思われる。その冒頭で、崇高に関して多くの議論はあるが一致した見解はないとし、文学の領域で議論を進める。*37 ミルトン、聖書、シェイクスピア等から詩行が引用され、崇高の例証が長々と述べられ、その後に絵画についての崇高論が展開される。初版にあったミケランジェロの作品の説明は削除され、その代わりに引き合いに出される絵はレンブラントの「病人のそばで脆き祈る人」(ボナ美術館所蔵)の素描と、フェデリーコ・ツッカロの(1540/1541 -1609)の「受胎告知」*38 の2つだけで、その説明も第一版のミケランジェロ作「聖ペテロの殉教」と比べると非常に短い。さらに崇高の特質を持っている画家に関して、
いまだかつて絵画のすべての部分で、すばらしさの極みに達した両家はいない。それは天使の行いであって、あるいはいまだ現れていないような天使のような画家の行いである。ラファエッロや他の画家たちが崇高に達し、ホメロスやデモステネスのような高みに登り詰めた。*39
と述べ、ミケランジェロの作品ではなく、今度はラファエッロの作品が「崇高」であるとされる。*40絵画の崇高についての説明は初版とほとんど同じで、いやそれ以上に崇高は何にもまして重要だと説かれているにもかかわらず。
先の論文で私は絵画の規則であると考えるものを示してきた。しかし誰もが理解し、すべてを実践したとしても、なお一つのものが欠けていると言わざるを得ない。さあ、崇高を達成するよう努力せよ。*41
An Essay on the Theory of Painting(1715)の初版と改訂版(1725)の間に出版されたTwo Discourses(1719)では、絵画の評価を三段階、Mediocre、Excellent、Sublimeに分け、Sublimeが最高の特質であると強調され、ミケランジェロがその特質を持っていると述べられている。*42 それゆえ1719年と1725年の間になにかが起こったのではないかと推測できる。1722年には An Account of some of the Statue, Bas-relief, Drawing and Pictures in Iyaly, &c with Remarks (1722)が出版されているが、この書物はリチャードソンが息子のジュニアを絵の調査のためにイタリアに赴かせ、その報告をもとに書き上げた旅行携帯書といった趣のある本である。絵画の理論書ではないため崇高についての記述はないが、システィーナ礼拝堂を飾るミケランジェロの作品について触れられている。「形式張った、小さなスタイルやゴシック様式の遺物」から抜け出そうとしていた15世紀の芸術家たちのなかで、
ミケランジェロは凄まじい勢いで現れ、稲妻の閃光のごとく偉大な作風で世界を驚嘆させた。それゆえ彼が称賛されるのも不思議ではない。彼は絵画における宗教改革のルターであった。現在の我らがラファエッロはミケランジェロに負うていることを、私は納得している。*43
としながらも、「実は彼の得意とするところは、絵画はではなく彫刻であった」*44と述べ、画家としてのミケランジェロをあまり評価しない。1715年のミケランジェロにたいする評価からの後退の裏には、息子ジュニアのシスティーナ礼拝堂におけるミケランジェロの絵にたいする評価が大きく影響しているように思われる。リチャードソンは絵画の最高の特質を「崇高」さに求めていることは一貫しているものの、それを持つ画家の特定に関しては揺れ動いているように思われる。とは言えリチャードソンが「崇高」の概念を絵画に適用した功績は大きい。
IV
1768年設立された王立美術院には初代院長としてSir Joshua Reynolds(1723-1792)が就任した。在任期間は歴代院長の中で最も長く24年に渡り、その間に行った15回の講演が一冊の書物にまとめられ、『講演集』(Discourses)の題名で出版された。彼の絵画論はその中に述べられているが、ほぼ年に一度の講演を纏めたもので、先行のリチャードソンの絵画論と異なり、系統だって述べられてはいない。したがって彼の絵画論を述べるには、焦点を絞り、行きつ戻りつしながら彼の理論を再構築しなければならない。もちろん本論の焦点はラファエッロとミケランジェロを彼がどのように評価したかであり、それぞれの評価の背後にある彼の絵画論を考察してみることにしたい。
レノルズは8歳の頃リチャードソンのAn Essay on the Theory of Painting(1715)を読み、感動し、画家の道を志したと言われている。*45 リチャードソンを通じフランスの絵画アカデミーの絵画理論を吸収したレノルズは、ラファエッロのバルダッサーレ・カスティリオーネ宛の手紙に代表される自然の理想美を信奉する。この理想美は古代の彫刻に表現されている美であり、イタリアルネッサンス期の二大巨匠ラファエッロとミケランジェロがそれぞれ異なる方法で追求した美であり、レノルズはそれをグレイト・スタイル*46と名付ける。それではラファエッロはどのようにしてそれを獲得したのであろうか。レノルズは言う。
ラファエッロが絵画の修行を始めたのは、彼の師のピエトロ・ペルジーノ(1450-1523)の手法を盲目的に真似ることによってである。それゆえ彼の最初の作品は彼の師の作品と見分けることは難しい。しかしまもなくより高くより広範囲にわたる考えを抱き、ミケランジェロの崇高な輪郭描法を模倣した。彼はレオナルド・ダ・ヴィンチとフラ・バルトロメーオの作品から色彩を学んだ。これらに彼の手の届く範囲にあった古代の遺物についての熟考を加え、他の画家を雇って彼のためにギリシヤや遠隔の地にあった彫刻を描かせた。それゆえ彼が後の画家たちの手本になったのは、彼が非常に多くのモデルを学んだからであり、彼は常に模倣し、常に独創的であった。*47
これはヴァザーリの『ルネサンス画人伝』から得た知識であり、ラファエッロの折衷主義と言われている。つまり、彼はミケランジェロと異なり、多くの画家たちや古代彫刻の優れた点を吸収し、さらに自然の完全な状態を観想することによって、グレイト・スタイルを確立したと、レノルズは述べているのである。さらにラファエッロのCartoonsに関して、マサッチオ(1401-1428)の影響が大きかったことを具体的に例証している。*48 ここから彼は次の結論にいたる。
個々の生体モデルの完全な模倣によって完璧に美しい像を造ることができないように、たった一人の画家を研究することによって、おそらく完全な芸術についての真の概念を形作ることはできないだろう。非常に多くの個別のものの中に散在している美を一つの作品に纏め上げることによって、画家は自然の中に見いだせないような美しい像を作り上げる。それゆえ多くの偉大な画家たちのすばらしさを自分の中に統合できる画家は、それらの画家の誰よりもより完璧な絵画に近づくことになるだろう。たった一人の画家に執着する画家は模倣の対象と肩を並べることもないし、いわんやそれを凌ぐことも考えないだろう。そのような画家は結局従うことだけを考え、必ずや遅れを取ってしまうに違いない。*49
ここで述べられているラファエッロの折衷主義を別の角度から見てみることにしよう。彼の2回目(1769年)と3回目(1770年)の講演で絵画習得の段階が述べられているが、その段階にラファエッロの折衷主義を置いてみよう。
レノルズは絵画習得の段階を三段階に分ける。第一段階は技術の習得であり、アカデミーの規則にしたがい、眼前にある事物を緻密に、写実的に模倣する技術を学ぶ時期である。第二段階は時代の試練に耐え抜いた巨匠の作品を模倣する時期であるが、一人の巨匠だけではなく多くの巨匠の作品を模倣すべきだとレノルズは忠告する。不完全な自然の完全な姿を想像すること、すなわち総体概念を獲得することが必要であり、それは各々の巨匠によって異なる。したがって多くの巨匠の総体概念を学ぶということは、彼らが不完全な自然の完全な姿をどのように想像したか、さらに自然の中に散在する美をどのように発見したかを学ぶと云うことである。第三段階は過去の巨匠と肩を並べる時期で、自らの理性に基づいて行動する時期である。自らの目で自然を見つめ、自らの総体概念、理想美を得る。それゆえ過去の巨匠の作品から形作られたアカデミーの規則に囚われる必要はない。
レノルズが考え出したこの絵画習得の段階は一見明白な事柄で、今さら云々する必要はないように思われるかもしれない。しかしそうではない。というのもこの段階こそラファエッロとミケランジェロの評価に深く関わっていると思われるからである。レノルズ自身明示してはいないが、先ほど取り上げたラファエッロの折衷主義は明白に第二段階に該当するように思われる。ラファエッロは多くの画家の作品や古代彫刻を研究し、それらの作品にどのような総体概念、理想美が描き込まれているかを研究したからである。レノルズはこの第二段階の代表的画家としてラファエッロを考えていたのではないだろうか。
一方レノルズはミケランジェロをどのように評価しているのであろうか。ラファエッロの長所を述べた後、レノルズはミケランジェロについて次のように述べる。
ミケランジェロはラファエッロほど多くの優れた資質を持っていなかった。しかし彼が持っていたものは、最高の種のものであった。彼は絵画を彫刻によって達成される以上もの、すなわち正確な形体と活力に満ちた人物像以上のものからなりったっているとは考えなかった。我々は両家がその作品の中で意図した以上のものを期待すべきではない。彼は決して絵画の中でより劣る気品や優美さを描ごうとはしなかった。*50
ミケランジェロはラファエッロに比べ多くの欠点を持っていた。しかし彼は彫刻から学んだ正確で躍動するフォームを他の誰にもまして熟知していて、絵画の分野でもその特質は遺憾なく発揮された。
技術的に非常に優れていたからという理由だけで、ミケランジェロは著しく詩的であった、という言うつもりはない。しかし技術的なすばらしさが彼の心を鼓舞し大胆にさせ、絵画を詩の領域まで高め、非常に危険な飛翔の中で詩と肩を並べるものにしたのである。ミケランジェロは両方の資質を等しく持っていた。しかし卓越した技術については、古代の彫刻の中に、特に「ミケランジェロのトルソー」という名前で知られている断片像の中に、確かに多くの手本が見いだされる。一方彼が人物像の中に描き込み、輪郭線の崇高さと上手く釣り合っている威厳のある人格、雰囲気、態度については、前例がない。それゆえそれは最も詩的で崇高な想像力から生まれ出たものに違いない。*51
ミケランジェロ否定派も肯定派も彼の彫刻のすばらしさを称賛する。彫刻で培った技術があったからこそ彼の想像力は飛翔し、詩的で崇高なものになったのだ。彼の想像力は彼自身の作品に影響を与えたばかりではなく、その時代の絵画そのものに大きな刺激を与えることになった。
ではミケランジェロの欠点と言われているものについてレノルズはどのように述べているのであろうか。彼はその欠点を一つ一つ論破するのではなく、しばしば指摘される彼の創意の気まぐれさについて次のように反論を加える。
ミケランジェロの創意には気まぐれさがある、ということは否定できない。このため彼の作品を研究するには慎重さが必要になる。というのもその創意は彼にはふさわしいものであるけれど、彼の作品の模倣は常に危険であり、ときには滑稽な結果に終わってしまうかもしれない。「その域の中には彼以外誰もあえて踏み入ろうとしない。」時に彼の気まぐれは極端になることを私は認めるが、それは彼の才能を貶めるものではないと私には思われる。それらの奇妙な逸脱を無視するわけにいかないが、同時に次のことを思い出さねばならない。すなわち欠点があるとするならの話だが、それらの欠点は卑しい低俗な心から生まれるようなものでないこと、そしてそれらは最高の美を生み出した同じ本源から生じたものであり、それゆえ彼以外誰も犯すことができないようなものであるということ、何ものにも服従することに不慣れな心の力強い衝動であるということ、あまりに激しいものであるがゆえに冷たい批評によって左右されるようなものでないことを。*52
レノルズはミケランジェロには多くの欠点があることを認める。しかしそれらの欠点は彼が絵画において最高の特質と考える「崇高」と同じ本源から生まれたもので、それを表現できる者だけが生み出せるものだ。「崇高」という概念はリチャードソンのAn Essay on the Theory of Paintingから得られたものであると思われるが、リチャードソンと異なり、崇高という概念について論じることはしない。しかしその概念がどのような効果をもたらすかについて短く述べている箇所が『講演集』には2カ所ある。
崇高は一つの偉大な概念で直ちに心を捕える。それも一撃のもとにである。*53
絵画における崇高は、詩においてと同じように、心全体を圧倒し捉えて放さないので、些細な批評に注意を向ける余地などなくなってしまう。このように見事に表現された偉大な概念の前にあっては芸術の些細な美しさなどすべて価値を失い、たちまち注意を喚起する価値などないと感じてしまうのだ。ラファエッロの特質である正しい判断や美的感覚の純粋さ、コレッジョやパルミジャニーノの非常に美しい優雅さは、すべてその前では消え失せてしまう。*54
絵画に表現された崇高は見る者の心を全的に捕え、飛翔させ、画面を構成する諸要素を忘れさせてしまう。これは絵画習得の第三段階におけるレノルズの考えに合致していないだろうか。彼はこの最終段階で、画家は過去の巨匠と肩を並べ、いかかるアカデミーの規則に縛られず、画家自身の理性に基づいて自然に対峙すると述べているが、まさにこれはミケランジェロが行ったことであると思われる。第一、第二段階は絵画習得の時期であるが、第三段階は過去の巨匠と肩を並べる段階であるので、もはや修得の時期ではなく、規則に囚われず自らの想像力を信じ制作する時期である。それゆえレノルズはこの三段階目にミケランジェロを位置づけたのではなかろうか。
レノルズはミケランジェロとラファエッロを比較し、画家を二つの視点から評価する。少々長いが、引用してみよう。
ラファエッロが存在するに至ったのはミケランジェロのおかげである。ラファエッロは、ミケランジェロのおかけで彼のスタイルの壮麗さを獲得できたのである。彼は思考を高めること、威厳のある主題を考えることをミケランジェロから学んだ。彼の才能はいかに光り輝いていようとも、もし彼がミケランジェロとの接触によってもたらされた火花を掴み損ねたのならば、それは可燃性物の中の火種のように、永遠にくすぶり続けただろう。そしてその炎は高熱を帯び激しく燃えさかることはなかったけれども、さらに純粋で、常に変わることなく、慎み深い炎であったことは認められなければならない。全体的に見て我々の判断はラファエッロの優位に傾いているが、ラファエッロは、他のものは何も必要ではないとか、何も欠けたものがないと感じさせるほど、我々の心を強く完全に捕らえることはなかった。ミケランジェロの主要作品の与える印象は、エドメ・ブーシャルドンがホメロスを読んでいたときに感じたこと、すなわち彼の体全体が膨張するように思われ、そして彼を取り巻くすべての自然が原子に縮小した、という感覚と完全に合致する。
これら二人の偉大な画家を互いに比較してみると、ラファエッロにはより豊かな審美眼と空想力があり、ミケランジェロにはさらに優れた才能と想像力があった。一方は美に優れ、他方は活力にあふれていた。ミケランジェロは詩的インスピレーションに優れ、彼の着想は広大で崇高である。彼の描く人物はより優れた種類の存在であり、我々自身の種に属すると思わせるようなものは、それらの人物の行動や態度にも、手足や容姿の描き方にも、なにもない。ラファエッロの着想は慎み深く、高貴で、主題に実に良く適合しているけれど、彼の想像力はさほど高尚ではなく、彼の描く人物は我々自身の卑小な存在からさほどかけ離れたものではない。ミケランジェロの作品は力強く、独特で、際だった特色がある。それらは非常に豊かで満ちあふれた彼自身の心から生まれ出たように思われる。それゆえ彼は決して他者の助けを求めて外に目を向ける必要もなかったし、またそれを蔑むようなこともなかった。ラファエッロの題材は全体的に借り物である、その高貴な構造は彼自身のものであるけれど。この類い希な画家のすばらしさは、彼の描く人物の礼節、美しさや威厳に、絵の考え抜かれた構成、素描の正確さ、純粋な審美眼、他の画家の考えを巧みに自分の目的にあわせるやり方にあるかもしれない。その判断力において彼を凌ぐ者はなく、そこに自然にたいする彼独自の観察、ミケランジェロの活力、古代彫刻の美と素朴さを、彼は結びつけたのだ。それゆえラファエッロとミケランジェロ、どちらを最高位に置くかという問題に関して、次のように答えなければならない。絵画のよりすぐれた特質を他の誰よりもより上手く組み合わせることができた画家にそれが与えられるとすれば、間違いなくラファエッロが最高位に置かれることになろう。しかしロンギノスが考えていたように、人の手によるもので達成できうる最高の特質である崇高が他のすべての美の欠如を十分補い、他のすべての欠点を償うものであるならば、そのときミケランジェロがその地位に立つことになろう。*55
上記引用したレノルズの前半部の言葉には、ラファエッロがミケランジェロから影響を受けたこととミケランジェロの作品が与える効果が述べられ、後半部にはラファエッロとミケランジェロの作品の相違が説明されている。絵画の優れた特質を上手く組み合わせること(折衷主義)ができた画家ラファエッロと、古代彫刻以外必要としなかった孤高の画家ミケランジェロとが対比される。レノルズは1790年の最終講演で「私がこのアカデミーで、この講壇から発する最後の言葉はミケランジェロという名前である」と述べ、その14ヶ月後に亡くなった。彼は明らかにミケランジェロを優位に置いたが、だからといってラファエッロを過小評価したわけではない。レノルズは画家としてミケランジェロに近づきたいと願ったが、王立美術院の院長としてアカデミーの絵画教育にはラファエツロの絵画手法がミケランジェロよりもさらに重要であることを理解していたのである。
*1 『ヴァザーリの芸術論』(ヴァザーリ研究会編、平凡社、1980年) pp.223-224
*2 ibid., p.85、しかし対話の後半部で、ミケランジェロの素描力でさえラファエッロに劣ると結論づける。
*3 Dialogue de la peinture intitulé L'Arétin、Paris (Éditions Klincksieek)、1996、p.26-27
*4 ドルチェの『絵画問答』と十六世紀ヴェネツィアの絵画感(ローリアーヌ・ファレイ・デスト、森田義之・小森もり子訳、五浦論叢:茨城大学五浦美術文化研究所紀要、no.12、p.160
*5 Giovan Pietro Bellori:The Lives of the Modern Painters, Sculptors and Architects:A New Translation and Critical Edition by Hellmut Wohl (Editor) (University Press 2005), p.21
*6 色彩論争については下記の文献を参考のこと。
Martin Rosenberg, Raphael and France (Pennsylvania State University Press, 1995) pp.47-49
*7 André Félibien, Conférences de l'Académie royale de peinture et de sculpture(1705), pp1-12, pp.31-46
*8 The art of painting, and the lives of the painters : containing a compleat treatise of painting, designing, and the use of prints : with reflections on the works of the most celebrated painters, and of the several schools of Europe, as well ancient as modern(1706)のpp.126-130で、ド・ピールはラファエッロの作品を絶賛している。
*9 Jonathan Richardson, An Account of some of the Statue, Bas-reliefs, Drawing and Pictures in Italy, &c, with Remarks(1722) pp.197-198
*10 そのほか、彼の著作でラファエッロがミケランジェロより優れていると述べている箇所をあげると、The Art of Painting(1706) p.27、Principles of Painting(1722) pp.197-198
*11 Roland Fréart de Chambray, Idée de la perfection de la peinture(1662)pp.65-66
*12 William Aglionby, Painting illustrated in three diallogues, containing some choice observations upon the art. Together with the Lives of the most eminent painters, from Cimabue, to the time of Raphael and Michael Angelo. With an explanation of the difficult terms, (1685) pp.81-82
*13 『アレティーノ――または絵画問答』(中央公論美術出版、平成18年) p.102
*14 その後ジョージ3世治世下の1763年に現在のバッキンガム宮殿に移され、公開されなくなった。議会の反対ももあり、1804年再びハンプトン・コート宮殿に返された。1865年ヴィクトリア女王はヴィクトリア・アルバート・ミュージアムに貸し出し、現在に至っている。
*15 Richard Blackmore, A Hymn to the Light of the World, with a Short Description of the Cartons of Raphael Urbin in the Gallery at Hampton-Court (1703), pp.16-26
*16 ibid., p.16
*17 Clare Haynes, Pictures and Popery: art and religion in England, 1660-1760 (Ashgate Publishing Limited,2006) pp.46-74を参照のこと。
*18 John Shearman, Raphael's Cartoons in the Collection of Her Majesty the Queen, and the Tapestries for the Sistine Chapel, Phaidon, 1972
*19 Frederick Whiley Hilles, The Literary Career of Sir Joshua Reynolds, (Cambridge Univercity Press, 1936) p.5
*20 Jonathan Richardson, An Essay on the Theory of Painting (1715), pp.5-6
*21 Lee, Rensselaer W. Ut Pictura Poesis, The Humanistic Theory of Painting, New York: W. W. Norton & Co., Inc. 1967および Jean H. Hagstrum, The Sister Arts (Chicago Univercity Press, 1958)を参照のこと。
*22 Jonathan Richardson, An Essay on the Theory of Painting (1715), p.6
*23 ibid., p.9
*24 ibid., p.240 しかしながら1725年の第二版ではその表は削除されている。
*25 ibid., p.112
*26 Jonathan Richardson, An Account of some of the Statue, Bas-relief, Drawing and Pictures in Iyaly, &c with Remarks (1722), pp.197-198
この本はJonathan RichardsonとJuniorとの合作である。彼自身は英国を出たことはなく、息子がローマに出かけ、その手記を元にして、この本は書かれた。
*27 ibid.., p.251
*28 An Essay on the Theory of Painting (1715), p.161
*29 ibid., p.162
*30 ibid., pp.165-168
*31 ibid., p.194
*32 ibid., pp.214-228
*33 『崇高について』(Peri Hupsous)の作者はロンギノス(213頃-273)とされてきたが、19世紀にその信憑性が疑われ、現在に至っている。しかし作者不明の現在、便宜上ロンギノスという名前が使われている。
*34 An Essay on the Theory of Painting(1715), p.208
*35 ibid., p.214
*36 ibid., pp.215-216
*37 ibid., pp.226-227
*38 リチャードソンは「受胎告知」の絵の作者をフェデリコ・ツッカリと述べているが、その絵の説明を読むと、Federico Barocciの「受胎告知」(1592年–1596年、ナンシー美術館所蔵)と考えられる。
*39 An Essay on the Theory of Painting(1715), pp.254-255
*40 An Account of some of the Statue, Bas-relief, Drawing and Pictures in Iyaly, &c with Remarks (1722), p.173
*41 An Essay on the Theory of Painting(1715)., p.257
*42 ibid., pp.34-35
*43 An Account of some of the Statue, Bas-relief, Drawing and Pictures in Iyaly, &c with Remarks (1722), p.273
*44 ibid., 273
*45 Frederick Whiley Hilles, The Literary Career of Sir Joshua Reynolds, (Cambridge Univercity Press, 1936) p.5
*46 Sir Joshua Reynolds: Discourses on Art (ed. Robert R. Wark, Yale University Press, 19779, pp.44-45
*47 ibid., p.103
*48 ibid., pp.216-221
レノルズはここでCartoonsのなかのSt.Paul Preaching at AthensとElymas the Sorcerer Struck with Blindnessを、サンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂のブランカッチ礼拝堂内部のマサッチオ作フレスコ画と比較検討している。
*49 ibid., p.103
*50 ibid., p.82
*51 ibid., pp.272-273
*52 ibid., p.276
*53 ibid., p.65
*54 ibid., p.276
*55 ibid., pp.83-84
関連サイト
・André Félibien, Conférences de l'Académie royale de peinture et de sculpture
・Jonathan Richardson, An Account of some of the Statue, Bas-reliefs, Drawing and Pictures in Italy, &c, with Remarks
・Roland Fréart de Chambray, Idée de la perfection de la peinture
・William Aglionby, Painting illustrated in three diallogues
・Lee, Rensselaer W. Ut Pictura Poesis, The Humanistic Theory of Painting,