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  ラファエッロ作CHRIST'S CHARGE TO PETERにおける
                        ローマカトリック的特色
​                         
高倉 正行

                                                               Ⅰ.はじめに

 チャールズⅠ世が皇太子の時期に購入したラファエッロの7枚のCartoons(実物大下絵)は、ウィリアムⅢ世の治世下に修復され、1699年にハンプトンコート宮殿の一室に展示された。その16年後、英国画家Jonathan Richardsonは、これらのCartoonsに基づき絵画理論を展開した。理論上の枠組みとしては、彼の画論は彼以前のイタリアやフランスの絵画理論に依拠しているものの、その全編でCartoonsの作品をすべて取り上げ分析することを通じて、英国画家として独自の理論を展開した。この意味で、彼は英国絵画理論の父といっても過言ではない。
 彼はAn Essay on the Theory of Painting(1715)において絵画要素のひとつであるInventionの中で次のように述べている。

   ひとつの絵にはひとつの主要な行動がなければならない。その主要な行動と同時に伏線となるどのような別の行動が描かれたとしても、それを描き入れること、あるいはその構成を展開することがいかに適切であったとしても、伏線となる行動が絵を分断してはならない。ああ、非凡なラファエッロ、許し給え、私はこの点において『キリストの変容』の驚くべき絵を認めることはできない。無言の悪魔に取り憑かれた息子を使徒たちのもとに連れてきた父親、弟子たちが彼を追い払うことができない付随的な行動は、少なくとも「キリストの変容」の絵の主要な行動と同じ程度に人目を引く。*1
 
 彼はここで、ひとつの絵にはひとつの主要な行動が描かれるべきで、たとえ伏線となる別の行動が描かれたとしても、それがその絵を分断することがあってはならない、と述べている。その例として『キリストの変容』(fig.1)を挙げているのだが、この絵はナルポンヌ司教の枢機卿ジュリオ・デ・メディチより依頼され、1797年までローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会の主祭壇(現在はヴァチカン宮殿美術館)に飾られていた。リチャードソンはローマに旅行したことは一度もなく、それゆえ彼はコピーを見て判断したと思われる。おそらく当時の英国画家たちの一部を除き、多くの画家たちもそうであったと思われる。とすれば自身の理論を説明する例として、彼はなぜ多くの画家たちが実際に見たことのないこの絵を取り上げたのであろうか。彼がAn Essay on the Theory of Paintingのこの箇所で取り上げるべき絵は、『キリストの変容』ではなく、英国にあったラファエッロ作のCartoonsの中の一つの絵Christ's Charge to Peter (fig.2)ではなかったろうか。
 Christ's Charge to Peter(『キリストのペトロへの啓示』)には、二つの主要なキリストの事績が描かれている。ペトロに羊の世話を命じることと鍵の譲渡がそれである。先の論文で考察した*2ことだが、キリスト教においてはこれら二つの行動はともに重要な事績であり、どちらかが伏線となるような出来事ではない。さらにまたリチャードソンは別の箇所で絵に表される時間に関して、「絵は一瞬の時間しか表現することができないゆえに、その瞬間に行われていると考えることができないような行動は描かれるべきではない」*3と述べているが、この観点からChrist's Charge to Peterを見てみると、「鍵の譲渡と羊の世話」は新約聖書の別々の箇所(『マタイによる福音書』16.15~20と『ヨハネによる福音書』21:17)で述べられ、生前のキリストと復活後のキリストが描かれている。これはリチャードソンの理論に反している。とすればなぜリチャードソンはこの箇所で、彼の主張を補強する例としてラファエッロのChrist's Charge to Peterを挙げなかったのか。この問題はリチャードソンのみならず、実は他の英国画家や批評家のラファエッロ理解にも関係する。それゆえリチャードソンだけではなく、18、19世紀の英国画家および批評家たちがラファエッロの絵Christ's Charge to Peterをどのように見ていたかを調べる必要がある。
 最も早くラファエッロのCartoonsについて著した人物は画家、批評家ではなく、詩人兼医師であったRichard Blackmore(1654-1729)で、彼は1703年詩集A Hymn to the Light of the Worldを著し、その中でCartoonsそれぞれについて詩を書いた。その8年後の1711年、批評家Richard Steele(1672–1729)は11月19日のThe Spectatorで、各Cartoonsについて短く述べている。1715年に上記のリチャードソンがAn Essay on the Theory of Paintingを、1764年にはBenjamin RalphがA Description of the Cartons [sic] of Raphael Urbin, in the Queen's Palaceを著した。19世紀になり、W. GunnがCartonensia(1831年)、Richard CattermoleがThe Book of the Cartoons(1840年)、Richard Henry Smith, Jun.がExpositions of the Cartoons of Raphael(1860年)、Charles B. NortonがAnalysis of Raphael's Cartoons(1860年)を出版している。これらの資料からラファエッロ作のChrist's Charge to Peterの絵が当時どのように読まれ、解釈されていたのかを考察してみよう。

                       Ⅱ.18世紀におけるChrist's Charge to Peterの解釈

 先に述べたように、英国において、ラファエッロのCartoonsについて初めて書いた人物は、Richard Blackmore (1654-1729)である。彼は画家でも理論家でもなく、ウィリアム3世の侍医であり、また詩人でもあった。先に挙げた彼の詩集A Hymn to the Light of the World(1703年)において、7枚のCartoonsそれぞれにつきひとつずつ詩を書き、その詩集の最後にChrist' Charge to Peterについての詩をおいた。彼がその詩を最後に持ってきたのは、ハンプトンコートの一室に飾られたCartoonsの順序に準じているのだが、その題名は"Our Saviour and his Twelve Apostles"であり、このCartoonにこの名をつけたのは彼だけである。おそらくハンプトンコート宮殿に飾られた当時、Cartoonsに統一された名称はなく、各批評家がそれらの絵の主題から銘々勝手に題名をつけたものと思われる。しかしブラックモアがつけた題名は間違っている。この絵に描かれたキリストは復活後の姿であるので、使徒はユダを除いた11名である。彼の詩は以下の通りである。

 見よ 神聖で 寛大なるキリストの中に  
 如何に 天上の甘美さが 威厳とせめぎ合っていることか
 それらはともに 完璧に作られているが
 にもかかわらず そこに さらに明らかな受難を 
 あらゆる魅力の中に慈愛を 人類への愛を 我々は見いだす
 キリストに使える12人の使徒は 押し合いながら立ち
 主の言葉を待ち受ける

 見よ 聖なるペトロは 跪き
 偉大なる主の手から 鍵を受け取る
 いと高き天上の不死の門は 広々と開き
 あらゆる無垢の魂が 入るのを待ち受ける
 しかし 死の座と絶えることのない苦しみに運命づけられた
 不敬の輩には 早々と閉じられる
 そのように 救世主は彼の使徒に 聖なる力を
 授けたが 他の使徒には授けなかった
 結び 罪人を解き放つ力を 持っていたのは
 彼だけではなく すべての聖なる使徒たちもまたそうであった
 この譲渡は 至高の正当性を伝えるものではなく
 すべての使徒たちを 使徒の王子ペトロの
 あらゆる統治に 従わせるものであった
 しかし尋ねてはならない ラファエッロの考えが何であるかを
 彼の判断は誤っているかもしれないが 彼の筆は誤っているはずがない *4
         
 ここに訳出した「この譲渡は 至高の正当性を伝えるものではなく」は、原文では"Much less this grant did sovereign right convey"となっているのだが、"this grant"とは明らかに鍵の譲渡を表し、"sovereign right"とは聖ペトロから連綿と続く教皇の最高権威を意味するだろう。*5だが問題は、その2行後に現れる謎めいた言葉である。「ラファエッロの考え」と「彼の判断」は一体何を意味しているのであろうか。それは、キリストが両腕で鍵と羊を指し示していることを考えると、明らかに、聖書の別々の箇所に述べられている事績をラファエッロがひとつの画面に描いたことを指している。ブラックモアは画家のその処置に疑問を呈しているのだ。ペトロはキリストから羊の世話を命じられ、天国の鍵を渡される。おそらくこれらはローマカトリック教においては何ら矛盾する問題ではなかったが、ラファエッロのこの判断は18世紀の英国人に大きな戸惑いをもたらしたのではなかろうか。彼らのこの困惑については、他の資料を検証することによって、後ほど詳述することにしたい。
 次にラファエッロのCartoonsが紙面に登場するのは1711年11月19日発行のThe Spectator紙であり、批評家Sir Richard Steeleによって書かれたものである。この内容はフランス人版画家Nicholas Dorigny(1658-1746)によるCartoonsの版画の予約購入を奨めるものであり、スティールはこのCartoonを"the Appearance of our Blessed Lord after his Resurrection"(「復活後の我らが聖なる主の出現」)と名付けている。その2年後の1713年4月4日に発行されたThe Gurdianにおいても同様に、彼はこのCartoonを"our Saviour appearing to his disciples after his resurrection"(「復活後弟子たちの前に現れた我らが救世主」)と表現している。しかしこのCartoonに描かれたキリストの二つの事績は、キリストの生前(鍵の譲渡)と復活後(羊の世話)のそれであり、それゆえスティールの説明はキリストの生前の行動、すなわち鍵の譲渡に触れることを敬遠しているように思われる。さらにまた、その絵の説明文は、「ペテロはことさら恭しく敬慕の入り交じった感情で跪き、師の命令を受け取る」(原文では"Peter receives his Master's Orders on his Knees with an Admiration mixed with a more particular Attention")となっており、キリストの命令が具体的に述べられていない。ペトロの優位性を表すキリストの命令は隠蔽されている。これは彼が誠実なホイッグ党員でありプロテスタントであったことに起因しているのかもしれない。
 既述のように、1715年画家Jonathan Richardsonは、イタリアおよびフランスの絵画論のフレームを借りながら、ラファエッロのCartoonsを題材にしてAn Essay on the Theory of Paintingを著した。彼はこの絵画論の中で、ラファエッロのこの絵を"Giving of the Keys"と命名し、この絵の主題を正面から捉えようとした。前者2人の命名は鍵の譲渡という主題を避けているような感があるが、リチャードソンは画家・批評家としてキリストの行動を避けて通ることはできなかったように思われる。画家として彼は、"Giving of the Keys"の11人の使徒の配置および衣服の色彩、遠景に描かれている燃えている家と生け垣にかけられている亜麻布*6に疑問を投げかける。しかし問題はそこにはなく、この絵の主題を彼がどのように述べたかにある。"Giving of the Keys"の主題をリチャードソンはどのように説明しているのであろうか。

   我らの救世主が聖ペトロに教会の世話を委ねたとき、その時使われた言葉はラファエッロによって説明されている。すなわち彼は、キリストをして羊の群れを指させ、そして二つの鍵を聖ペトロに受け取らせたのである。*7

 この箇所でリチャードソンはラファエッロの意図を把握し、この絵の二つの主題を明確に述べている。彼は画家として絵画論を組み立てる場合、ラファエッロの意図を隠蔽することはできなかったのではなかろうか。二つの主題のうちペトロへの鍵の譲渡は、ウィリアム3世とメアリー2世以後の英国民にとって大きな問題であったように思われる。というのも教会の世話と連綿と続く教皇の正当性を認めることは、イギリス国教会にとって許しがたい行為であったからである。しかしリチャードソンはこの認識を詳述することはない。

  福音史家の記述によって、キリストは他の使徒よりも聖ペトロを愛していたという仮定に基づき(少なくともラファエッロはローマ・カトリック教徒であったので、そのように理解していたはずである)、我らが救世主は、他の使徒にまして教会の世話を聖ペトロに委ねたように思われる。史実に関しては不明であるが、聖ヨハネはキリストに愛された使徒であったので、彼がこの名誉を授かるものだと思っていたであろうし、また聖ペトロほど主を愛していないと思われていたことに彼は傷ついたことも、大いにあり得る。それゆえラファエッロはこの絵の中で、聖ペトロあるいは他の使徒たちに劣らないほど聖ヨハネは主を愛していると主に信じて欲しいと懇願しているかのように、激しい熱情に駆られた聖ヨハネを主キリストに向かわせている。*8
 
 リチャードソンは、ラファエッロがローマカトリック教徒であったと述べながらも、鍵の譲渡がローマカトリック教および教会の正当性を保証する行為であることを黙秘し、聖ペトロの隣にいてキリストに詰め寄る聖ヨハネへと見る者の視線を向けさせる。彼のこの回避は何を意味するのであろうか。
 リチャードソンは1715年に最初の絵画論を出版する以前、画家になることに躊躇いを感じていた時期があった。それは1704年頃のことで、彼は神学上のことで悩み、画家の仕事を断念しなければならないと感じるほどのものであった。「幾つかの宗派が主張するように、イメージメイキングが罪になるのではないかと恐れ」*9、一時的に断念したのである。肖像画家であるリチャードソンが自らの作品が罪業になるのではないかという不安から、信仰に決着をつけるまで描くことを中断したのである。その時期彼は、カンタベリーの大司教であったThomas Tenison(1636-1715)を精神的指導者として仰ぎ、またロックの哲学的著作や唯理主義者で自由思想家であったJohn Toland(1670-1722)の著作を読みふけった。イギリス国教会は17世紀初頭に典礼や教会制度を重んじるHigh Churchと、それらを否定し聖書と信徒の心を重視するLow Churchに別れたが、テニソンはLow Church派の人物であった。リチャードソンがこの大司教と親交があり、またロックやトーランドの著作を読んでいたという事実から、彼の信仰はローマカトリック教およびイギリス国教会のHigh Churchに疑問を抱いていたのは明らかである。
 信仰にたいする彼の疑問は1711年から翌年にかけて書かれたHymn to Godに述べられている。この詩は彼の子供たちに精神的遺産として書かれたものであるが、その中で彼は組織化された宗教およびローマカトリック教と関連した儀式にたいして、激しい嫌悪感を述べている。*10 これらのことからリチャードソンは聖書を重んじ、カトリックの制度・儀式を否定し、理性を肯定する自由思想家として、信仰にたいする疑問から蘇ったように思われる。彼のこの思想はラファエッロ作Christ's charge to Peterの解釈に大きな影響を与えている。自由思想家として鍵の譲渡を述べながら、ローマカトリック教に対する嫌悪感からその詳細を説明しなかったのではなかろうか。
 1759年にJohn Boydellによって出版されたThe School of Raphaelは英国の画家たちに多大の影響を与えることになったが、その中にはBenjamin Ralphによる各Cartoonsの説明が挿入されている。それは1764年、同じ版元によって独立した書物として再版された。この中でChrist's Charge to PeterCartoonは"Christ's Charge to Peter; Commonly Called the Delivery of the Keys"と名付けられ、鍵の譲渡も明記されている。しかしこの絵の場面を表す聖書の記述は「ヨハネによる福音書」(21-17)だけが引用され、鍵の譲渡を述べた聖書の場面のそれは引用されていない。*11キリスト、聖ペトロ、聖ヨハネについての解説はリチャードソンの説明を踏襲したものであり、そこに新たな発見を見いだすことはできない。聖ペトロの解説にあたっては、羊の世話を指摘しながらも、鍵の譲渡に関して一切述べてはいない。この絵の題名に「鍵の譲渡」と付け加えているが、それはリチャードソンの解説を利用したがために、加えざるを得なかったと考えられる。レイフの説明には明らかに鍵の譲渡を無視しようとする意図が窺える。

                            Ⅲ.19世紀におけるChrist's Charge to Peterの解釈

 1699年ハンプトンコート宮殿に展示されたラファエッロのCartoonsは、1763年バッキンガム・ハウスに移され、多くの人たちが目にすることはできなくなった。しかし1804年再びハンプトンコートに戻され、その後1865年ヴィクトリア&アルバート博物館に移され現在に至っている。それゆえバッキンガム宮殿に置かれていた期間Cartoonsに関する解説書は出版されておらず、19世紀に出版された幾冊かの解説書はCartoonsが再びハンプトンコート宮殿に戻ってからのものである。
 1831年英国の牧師であり著作家であったWilliam Gunn (1750–1841) はCartonensiaを著し、ラファエッロの経歴とCartoonsの説明を行った。絵画の世界に足を踏み入れたことがない彼がCartoonsについて書いたのは、おそらくローマ滞在中ヴァチカン宮殿および図書館に出入りする許可を得、そこでラファエッロのタペストリーを見て感銘を受けたからと思われる。Christ's Charge to Peterについての彼の解説は、その最後にリチャードソンからの引用を載せていることから分かるように*12、リチャードソンの絵画理論に大きく影響を受けたものである。それゆえ彼はリチャードソンと同様に「聖ペトロへの鍵の譲渡」と述べながらも、「この絵の主題は『私の羊を養いなさい』である」*13と指摘し、鍵の譲渡については一切触れてはいない。
 次に挙げるのは1840年にThe Book of the Cartoonsを出版したRichard Cattermole(?-1858)である。彼は画家George Cattermoleの兄で、聖職者であり、神学士であった。そのためであると思われるが、ラファエッロのCartoonsについての彼の解説は18および19世紀の解説書の中で最も長く、"The Charge to Peter"(彼がこのCartoonにつけた題名)の説明も31ページにわたっている。彼は、聖職者かつ神学士として、鍵の譲渡の問題を避けて通ることができなかった。「キリストは権威の象徴である鍵を一方の手で指さし、使徒ペトロにそれを譲渡する行為の中にいる。」*14カターモールは、リチャードソンと同様に、鍵の譲渡を指摘しながら、この場面を描いたラファエッロについて次のように説明する。

   その著名な画家は、彼の属する教会の特異な考えから目を背けることができなかった、あるいはそうすることを好まなかった。それゆえ彼は、キリストの素朴でひたむきな使徒をローマカトリック教会の教皇として主張できる象徴的な存在とすることによって、彼の絵の真理と明快さを幾分か損なってしまった。*15
 
 ここでカターモールが述べているのは、ラファエッロがペトロへの鍵の譲渡を描き入れることによって、絵の主題が損なわれてしまったということである。自らがローマカトリック教の敬虔な信者であったラファエッロは、タペストリーの依頼主がレオ10世であったために、羊の世話という主題に鍵の譲渡を加えることによって、この絵の主題を複雑化してしまったと、彼は主張する。

  それゆえこの絵を「鍵の譲渡」と呼ぶ広く知れ渡った過ちは、画家が彼の属する教会の伝統に従ったことに端を発する。第二に、「開けたり閉めたりすること」あるいは「繋ぐことと解くこと」の権能(我々がそれらの言葉をどのような意味に取ろうとも)は、この場面では一人の特定の使徒に示されたのだが、他の場面では同じように各々の使徒に託されたのである。・・・(省略)・・・何らかの優位性がペトロにあるとすれば、それは時間の先行性であって、権能の優位性ではない。*16
 
 さらに彼は、鍵の譲渡がこの絵の主題を曖昧にしていると述べるばかりでなく、使徒たちの中でペトロの優位性も否定している。鍵は他の使徒たちにも与えられた(『マタイによる福音書』18-18)がゆえに、ペトロがローマカトリック教会の最初の教皇であることをも否定する。しかしこの過ちはラファエッロに責任があるとは彼は述べない。「鍵の導入(それはラファエッロの生きた時代と国にとってはあまねく行き渡った考えであったが)という一宗派の過ちは、その画家に責任があるとはあまり考えられないけれども、ある程度この絵の意図を損なっている。」*17 ここでいう一宗派とは、言わずもがな、ローマカトリック教であり、カターモールはローマカトリック教会そのものを否定していることになる。彼のこの認識は、本論の最初で取り上げたブラックモアの詩の「彼の判断は誤っているかもしれない」に通底する。
 1860年にはCartoonsの解説書は2冊出版されている。ひとつはCharles B. NortonによるAnalysis of Raphael's Cartoonsであり、他方はRichard Henry Smith, Jun.によるExpositions of the Cartoons of Raphaelである。ノートンによる解説はその大部分が絵の登場人物の表情や姿勢の分析に占められ、主題に関する説明は最後の2頁のみである。ノートンはこのCartoonを"The Charge to Peter"(『ペテロへの啓示』)と名付け、鍵の譲渡の重要性を軽視する。

   ペテロが受け取った鍵は現在のテーマには全く関係がない。それは遙かに早い時期に比喩的にキリストから与えられていた。そのため多くの画家たちが鍵を受け取るペトロを描いている。しかしこの実物大下絵に鍵が描かれて以後、奇妙な誤解によって、「鍵の譲渡」としばしば呼ばれるようになった。*18

 聖書によれば鍵の譲渡はイエスの存命中に行われ、羊の世話はイエスの復活後に述べられた出来事である。それゆえ時間的にも場所的にも異なる出来事をラファエッロは一つの絵に描いたのであり、ノートンは一方の出来事を軽視することによって、この絵が与えるローマカトリック的特徴の無化を図っている。
 最後に取り上げるRichard Henry Smith, Jun.による解説は"The Charge to Peter"に描かれた鍵の譲渡を正面切って取り上げている。おそらくスミスによる解説がこの絵のローマカトリック教の特質を取り上げた最初の解説書であると思われる。その著の冒頭で、彼は「この実物大下絵を見ると、すぐさま使徒ペトロの両手に握られた鍵に目を奪われてしまう。」*19と述べ、それがこの絵の意図に関し多様な意見を生み出したことを指摘している。

   その使徒の両手にある鍵は、作品の意図に関し多様な意見を生み出したばかりでなく、ラファエッロの芸術と信仰に関する議論をもたらした。絵画の専門家たちはそのシンボルに反対した。彼らは鍵と羊の妥当性を問題視したのである。*20

 ここにはこれまでの解説書ではあまり触れられていなかった疑問点が明確に述べられている。"The Charge to Peter"の実物大下絵は、1699年ハンプトンコート宮殿に展示されて以来、英国人にとって宗教上の問題を含んだ絵であり、その絵にたいするプロテスタントの態度を次のように述べる。

   芸術的感性によってその画家の作品の評価が妨げられる場合があるように、画家の作品を批評する際にプロテスタント主義がキリスト教教義より優勢になる場合がある。教皇の紋章に憤慨するあまり、この絵はプロテスタントの信徒たちにとっては全く価値がないと断定する人たちがいる。*21

 ローマカトリックの信徒であるラファエッロが、教皇の紋章、すなわち鍵を描き入れたのは当然のことであり、ローマカトリック教においてはその譲渡はPrimatus Petri(ペトロの優位性)を表し、かつペトロは最初の教皇であることを意味する。すなわちペトロはローマカトリック教会最初の教皇として現在の教皇に至るまでの正当性を保証する存在なのだが、イギリス国教会の信徒たちは、おそらくこの事実を受け入れることができなかったのだろう。スミスは、リチャードソンとは異なり、鍵の存在を無視することはなかった。しかし、彼は別の方法で鍵の象徴を無化しようとする。それはペトロを使徒の代表者とするのではなく、「我々の前のペトロは人類の手本である」*22 と述べることによって、教皇やローマカトリック教会の正当性を剥奪する。Shearmanは、英国においてCartoonsを通じてラファエッロの英国化*23 がなされたと述べたが、その過程には、スミスのように、鍵を受け取るペトロの存在の非ローマカトリック化が必要であったように思われる。

 ラファエッロのCartoonsが1699年にハンプトンコート宮殿に展示された4年後、ブラックモアによってChrist's Charge to Peter に描かれた鍵の存在が疑問視された。鍵の譲渡はペトロの優位性を表すと同時に、教皇とローマカトリック教会の正当性を保証するものであった。しかし7枚のCartoonsの中でこの保証を与えているのはこの絵だけではない。ペトロ・サークルの最初の絵であるThe Miraculous Draught of Fishes(『奇蹟の大漁』)もまたローマカトリック教会の正当性を暗示している。この絵の画面右上の遠景には、聖書のその場面とは時空的に異なるラファエッロ存命中のローマ市内の教会が描かれている。キリストによって最初の弟子が選ばれる場面に、16世紀初頭のローマ市内の教会が描かれていることは、キリストから連綿と続くローマカトリック教の正当性を暗示しているように思われる。しかしこの絵にたいしては、その情景が目立たないためか、大きな問題とはならなかった。
 Christ's Charge to Peterの構図におけるラファエッロの意図は、明らかに羊の世話よりも鍵の譲渡が先行していたように思われる。この絵には2枚の下絵が残されており、それらを完成した絵から振り返り比較すると、fig.4からfig.3そしてfig.2へと進展したと考えられる。最も早い時期の下絵fig.4では、ペトロの両腕には2対の鍵が握られ、キリストの右腕は天上を指している。おそらくこの天上を指すキリストの右腕は、天国の門を開ける鍵を象徴する行為であろう。また途中までしか描かれていない左腕は地面に向かい、地獄の門を指し示しているように思われる。次の段階の下絵fig.3ではキリストの両腕は、完成した絵のように八の字形に地面に向けられ、左手は鍵を指さしている。しかしこの下絵でも羊の群れは描かれていない。それゆえfig.3では途中までしか描かれていなかった左腕が完全に描かれ、地獄の門をさらに明確に示されているように思われる。キリストの服装にしても下絵fig.4とfig.3は上衣をまとい、生前の姿で描かれ、鍵の譲渡の場面を表していると考えられる。完成した絵ではキリストの周りに羊が描かれ、上衣はなくなり胸が露出している。この姿は復活後のキリストの姿である。これらの変遷から考えると、ラファエッロの意図は生前の鍵の譲渡から復活後の羊の世話へと移行したように思われる。いずれにせよラファエッロは最初から鍵の譲渡を描こうとしていた、これは明確である。
 ラファエッロのこの絵の意図にたいし、18、19世紀の英国の画家・批評家は疑問を呈し肯定しようとしなかった。ブラックモアは疑問を投げかけ、スティールは復活後のキリストを強調し、キリスト生前の鍵の譲渡には触れない。リチャードソンは自身の宗教的懐疑から立ち直り、再び絵を描き始めたが、ラファエッロがローマカトリック教徒であったことは述べるものの、この絵のローマカトリック的特質については詳述しなかった。レイフにいたってはこの絵の2つの主題の一方である譲渡を黙殺している。ガンにしても同様で、この絵の主題は羊の世話であることを強調し、鍵の譲渡について一切触れない。カターモールは鍵の象徴を認識していたが、それがラファエッロのこの絵を理解しがたいものにしていると主張する。ノートンは鍵の重要性を否定することによって、この絵のローマカトリック的特質の無化を試みる。最後に取り上げたスミスによる解説において、この絵の問題点は明確になる。つまり教皇とローマカトリック教会の正当性を保証する鍵を受け取るペトロを人類の代表者にすることによって、教皇の権能を剥奪する。ラファエッロのChrist's Charge to Peterにおけるローマカトリック教会の特徴は、これまで検証してきたように無視されるか、もしくは無化された。それではラファエッロ作Christ's Charge to Peterを離れ、宗教画一般にたいして当時の英国のプロテスタントおよび一般の人々はどのような態度を取っていたのであろうか。

                        Ⅳ.18世紀のプロテスタントおよび偶像崇拝禁止について

 『ローマ帝国衰亡史』の著者として知られるEdward Gibbon(1737-1794)は自伝の中で、「あらゆる過剰な装飾は非常につましいプロテスタントによって拒絶された。しかしつねに理性の敵であったローマの偶像崇拝は、しばしば美的感覚を生み出す基になった。」*24 と述べている。ギボンがここで述べているのは、イタリアが生み出した芸術はその根幹にローマカトリック教による偶像崇拝があり、プロテスタントはそれを拒否してしまったというこである。
 『七つの秘跡の擁護』(Assertio Septem Sacramentorum)を著し、ローマ教皇レオ10世から『信仰の擁護者』(Defender of the Faith)の称号を付与されるほどの敬虔なローマカトリック教徒であったヘンリ8世は、離婚問題を契機にイギリス国教会を樹立し、1531年その首長になった。イギリス国教会は表面上プロテスタントの一派として考えられていると思われるが、信仰上の相違でカトリック教会から分離したわけではない。そのためイギリス国教会は様々な矛盾を抱えることになった。その後、ローマカトリック教との違いを明確にするために、エドワード6世やエリザベス1世などによって様々な改革*25 が行われた。その一環に偶像崇拝禁止があり、それが原因で英国における芸術は低迷の域を出ることはなくなった。16世紀から17世紀までイギリス国教会の偶像崇拝禁止に関し多くの宗教人による文書が発掘されており、またラファエッロのCartoonsが展示された18世紀の宗教画にたいする研究は近年多くの成果を見せている。それゆえその時代の英国の宗教画にたいする態度が窺える文書および出来事を参考にして、その時代の偶像崇拝禁止の特徴を述べてみたい。
 1766年土木技師・建築家でありロイヤル・アカデミーの創立者の一人であったJohn Gwynn (1713-86)は、当時英国における絵画の状況を以下のように述べている。

 英国において絵画を最高度の完成へと導くためには、以下のことが切実に望まれる。 公の礼拝の場所からこの種の絵画作品を駆逐するという狭い了見は、完全に打破され るべきだと云うことである。適切に選ばれた主題の絵であってもプロテスタントの教 会には置かれるべきではないという考えにたいする確実な根拠はどこにもない。ロー マカトリック教を信奉する人々は木製の聖人像や絵を崇拝する。だからといってイギリス国教会に所属する人々にとって、単に礼拝場所に飾られているという理由で、崇拝の対象として意図されていない絵を見ることが罪になるなどという議論は成り立たない。*26
 
 グウィンはプロテスタントであっても教会内に絵を飾ることを是としているわけだが、全ての宗教画について肯定しているわけではない。それは絵の主題次第であると主張する。

  偽りの聖人たちの驚くほど迷信的な伝説は、紛う方なく、永遠に駆逐されてしかるべきである。しかしキリストや使徒たちの生涯や奇跡は教会に確実に適した主題であり、決して一毛たりとも異議を唱えるべきものではない。*27

 ここには主題の内容が説明されている。「偽りの聖人たちの驚くほど迷信的な伝説」と「キリストや使徒たちの生涯や奇跡」がそれらであるが、後者は聖書に書かれている内容のことを示し、前者はそこに述べられていないことを意味していると考えられる。したがってグウィンは、聖書に述べられた出来事を主題にして描いた絵を肯定しているのである。
 以上のグウィンの引用箇所から判断できることは、当時のイギリス国教会のプロテスタントたちの中には、教会に飾られた絵を完全に否定する人々と、絵の主題によっては認められると主張する人々がいたと云うことである。完全否定派の人たちにたいして、彼は次のように述べ、その考えを是正するように提言する。

  この恥ずべき狭量な偏見が一旦克服されれば、英国は早晩教会や画家においてローマとさえ競い合うことになるかもしれない。しかし、それが起こるまで、歴史画はその絶頂に達することは決してないだろう。そのような輝かしい機会が訪れれば必ずや英国の歴史画はそのような高みへと上ることになるだろう。*28

 これについてはClare Haynesも同様のことを指摘*29 している。ヘインズは完全否定派のプロテスタントの例として、John Phillipsによる研究を挙げている。「人の手による作品は危険をはらんでいる。それは神による作品を促すことにふさわしくないばかりでなく、悪魔もしくは反キリスト教徒の作品にもなりかねないからだ。」*30 この考えによれば、全ての芸術作品は教会内においては否定される。しかしこの考えは広く共有されなかった。*31
 一方教会内における絵画の装飾を是とする人物は、グウィン以前にもいたのである。それは、政治家であり小説家であったHorace Walpole(4th Earl of Orford, 1717-1797年)で、彼は当時の絵画界に詳しく、Anecdotes of Painting in Englandを著し、それが17、18世紀の英国絵画を研究する第一資料となっている。その著作とは別に、引退した父親Robert Walpoleの気晴らしのために書かれたとされる、A Sermon on Painting (1742年)と題する、人口に膾炙しない絵画についての講話があるのだが、この講話の中の著者の言葉には宗教画にたいする当時のロンドンの人々の一般的な姿勢が現れている。
 彼の講話は旧約聖書『詩編』(115)の引用から始まる。

  口があっても話せず
  目があっても見えない。
  鼻があってもかぐことができない。*32

 天にいる神の代わりに偶像を作り、それを崇めることにたいする禁止は、ローマの古代宗教にたいして向けられたものであり、具体的に以下のように説明されている。

   実際、被造物の作品を飾る過ちは甚だしく酷いので、その愚行は罪行よりもより大きいように思われる。憤りを呼び起こすというよりもむしろ哀れみを感じさせるほどである。彼らは崇拝する、彼らは影に頭を垂れる。彼らは理解できない神を賛美する。しかし彼らが崇拝するのは自分自身の考えが生み出した不鮮明なものなのだ。森羅万象の目であり、あらゆる自然を通して話しかけ、あらゆる存在に生命を吹きかける神の代わりにである。神の代わりに、彼らは、目があっても見ることはなく、口があっても話せず、鼻があってもかぐことができない影を崇拝する。これらが汝の神々なのだ、おー、ローマよ!*33

 ここには古代ローマの多神教を飾る絵画や彫像に向けられた非難が述べられている。ウォルポールは、人の手による作品を神のごとく崇拝することを責めているのである。もちろんこの行間には、古代ローマの宗教を取り入れ、同じようにローマカトリック教会に飾られている絵画も、彼の念頭にはあったに違いない。しかし彼は非難の矛先をローマカトリック教会に向けず、絵画の説明へと進む。

  絵画そのものは無垢なものである。いかなる芸術も科学も罪になるようなものではありえない。罪を引き起こすのはその適用なのである。造物主の筆致を人が真似ることができる限りにおいて、天地創造の神の作品に倣って描き、あるいはそれを模倣することは、悪いことであろうか。そのようになるのは、我々が人の作ったものを不敬な目で聖なるものと見なすときであり、造物主を真似て我々自身が作った些細なものを無比の神々と呼ぶときである。その時我々は罪を犯すのである。これは慢心である。これが偶像崇拝なのだ。*34

 ウォルポールは、絵画が偶像崇拝に陥る要因を二つ挙げている。絵画自体は無垢であるものの、それを聖なるものと見なし、神々を崇敬するように飾り立てるときである。パウロ・サークルの中のローマの多神教世界を描いた絵、The Sacrifice at Lystraに見られるように、神々を奉る像や絵を花で飾ったり、その前で香を焚いたりする行為から偶像崇拝が生まれると、彼は述べる。それゆえそのような行為自体を彼は禁止するのであって、教会にそれらを飾ることを非としているわけではない。
 おそらく、これら二人に代表されるような考えが18世紀において主流であったと思われる。グウィンが主張しているように聖書から外れていない主題の作品、あるいは、ウォルポールの主張するように神のごとくに飾り付けない作品ならば、教会内に置かれても良しとされたのである。こうした考えが広まっていたことを示す一例を、早くも18世紀初頭に見いだすことができる。それは、イングランド国教会のロンドンの主教座聖堂であるセイント・ポール大聖堂の再建の時のことであった。
 この大聖堂は1666年のロンドン大火後、Chrisopher Wrenによって1710年再建されたが、その丸天井を飾る絵のコンテストが1709年3月*35に行われた。そのコンテストに名乗りを上げた画家は、James Thornhill (1675 or 1676–1734)、Giovanni Antonio Pellegrini (1675–1741)、Pierre Berchet (1659–1720) 、Louis Chéron (1660–1725)、Juan Bautista Catenaro (?)の5名であったが、その2年後にはローマに滞在していたJohn Talmanの紹介で、さらに2人の画家、Sebastiano Ricci (1659–1734) とMarcantonio Franceschini (1648–1729)が競技に加わることになった。*36 最終的には1715年にソーンヒルが選考されたのだが、その決定までには紆余曲折があった。その原因は、選考委員会の改編にあったように思われる。選考委員を選び直す度に、トーリー党とホイッグ党支持の委員の人数の優劣が逆転し、政治的な背景によって仕切り直しが行われた。1709年に招集された選考委員会には、リチャードソンの精神的指導者であったカンタベリー大主教Thomas Tenisonが含まれていて、ホイッグ党支持の彼の影響力は大きかったように思われる。彼は偶像崇拝禁止についての著書*37 の中で、ローマカトリック教会内の偶像に断固反対の態度を示し、イギリス国教教会内の偶像の禁止を表明した。しかし彼の偶像の意味合いは、その完全反対者の態度とは少々異なっている。彼は、絵の主題が受けいられるものであり、それが適切に使用されていれば、教会内の絵や像は許されるとしたのである。さらに彼は、「私は絵画の評論家ではないが、2つの点で、次のことが主張可能だと思う。ひとつ目は、雇用される画家はプロテスタントであると云うこと、ふたつ目は英国人であると云うこと。」*38、と附言した。この結果、セイント・ポール大聖堂の丸天井を飾る絵は、主題が聖書外典からのもではあってはならないこと、『使徒言行録』から取られるべきであることという条件の下に、ジェイムズ・ソーンヒルに依頼されることになったのである。
 ソーンヒルはセイント・ポール大聖堂のキューポラに濃淡画法による8枚の絵(fig.5)を描いた。それらの主題は、The Conversion of SaulThe Blinding of ElymasThe Sacrifice at LystraPaul Converting the Jailor at PhilippiPaul Preaching in AthensThe Conjurors of Ephesus Burning their BooksPaul Before King Agrippa、そしてPaul Shipwrecked on the Island of Melita*39 というように、全て『使徒言行録』から取られた。これらの絵のうち、構図から判断して、4枚の絵がラファエッロのCartoonsの影響下に描かれたと思われる。ヴァチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に向かって左側の壁に飾られた6点のタペストリーのうち、現存しているCartoon数は4枚であるが、ソーンヒルはそれら全てをセイント・ポール大聖堂のキューポラに利用したことになる。パウロを主題にしたラファエッロのこれら4枚の絵はすべて『使徒言行録』から採られ、ゆえにキューポラの選考委員会においても問題とはならなかった。
 17世紀のプロテスタントたちによる偶像崇拝禁止運動*40とは異なり、18世紀になるとホイッグ党の躍進もあって、セイント・ポール大聖堂のキューポラの例に見られるように、その運動は緩和されたかに見える。しかし、聖書に述べられた出来事を描くにあたって、その内容がローマカトリック教をあからさまに擁護するような内容のものは受けいられなかった。18世紀初期においてプロテスタントの偶像崇拝禁止運動は弱まったかに見える。しかし18世紀後期に起こったゴードン騒乱(1780年)に見られるように、宗教的かつ政治的側面においてはローマカトリック教とプロテスタントとの不和は治まってはいなかった。だが、ラファエッロの現存しているCartoonsはそのすべての作品がイギリス国教会の信徒たちに受け入れられるためには、そのなかで最もローマカトリック的色彩が強いChrist's Charge to Peterは無視されるか、あるいはその絵の主題のローマカトリック的意味合いは無化されなければならなかったのである。

*1 Jonathan Richardson, An Essay on the Theory of Painting, 1715, pp.60-61
*2 「ラファエッロ作Cartoons-ペトロ・サークル-の考察」(高野山大学論叢 第49巻), pp.37-63
*3 op.ct., Jonathan Richardson., 1715, p.59
*4 Richard Blackmore, A Hymn to the Light of the World, with a Short Description of the [C]artons of Raphael Urbin, in the Gallery at Hampton-Court, 1703, p.26
*5 Clare Haynes, Pictures and Popery: Art and Religion in England, 1660-1760,  (Ashgate Publishing Limited, 2006), p.64
*6 op.ct., Jonathan Richardson., 1715, p.69
*7 ibid., p.101
*8 op.ct., Jonathan Richardson., 1715, pp.44-45
*9 Carol Gibson-Wood, Jonathan Richardson: Art Theorist of the English Enlightenment, (Yale University Press, 2000), p.39
*10 Carol Gibson-Wood, "Jonathan Richardson's 'Hymn to God'", Man and Nature/L'homme et la nature, vol.8, 1989, pp.81-90
*11 The School of Raphael: The Student's Guide to Expression in Historical Painting, by Nicholas Dorigny, Benjamin Ralph (Commentaries by), Dr. Tom Richardson (Designer), 2010, pp.36-37
*12 William, Jr. Gunn, Cartonensia Or, an Historical and Critical Account of the Tapestries in the Palace of the Vatican, 1831, pp.81-82
*13 ibid., p.79
*14 Richard Cattermole, The Book of the Cartoons, 1840, p.64
*15 ibid., p.65
*16 ibid., p.68
*17 ibid., pp.77-78
*18 Charles B. Norton, Analysis of Raphael's Cartoons, 1860, p.28
*19 Richard Henry Smith, Jun. Expositions of the Cartoons of Raphael, 1860, p.15
*20 ibid., p.16
*21 ibid., p.17
*22 ibid., p.18
*23 John Shearman, Raphael's Cartoons in the Collection of Her Majesty the Queen and the Tapestries for the Sistine Chapel,(Phaidon,1972), p.151
*24 Gibbon, Edward, The Autobiographies of Edward Gibbon: Printed Verbatim from Hitherto Unpublished Mss(2013), p.199
*25 Visitation Articles and Injunctions, Vol.Ⅱ,1536-1557, ed. W.H.Frere and W.P.M.Kennedy, (Longman Green &Company, 1910)およびVol.Ⅲを参照。
*26 John Gwyn, London and Westminster Improved, 1766, p.26
*27 ibid., p.26
*28 ibid., p.27
*29 Clare Haynes, Pictures and Popery,: Art and Religion in England, 1660-1760, (Ashgate, 2006), pp.106-107
*30 John Phillips, The Reformation of Image: Destruction of Art in England, 1535-1660, (University of California Press, 1973), pp.xi-xii
*31 op. cit., Clare Haynes, p.106
*32 聖書 新共同訳(日本聖書教会、1987,1988)より
*33 ÆDES WALPOLIANÆ or a Description of the Collection of Pictures at Houghton-Hall in Norfolk, 1752, pp.100-101
*34 ibid.,, p.101
*35 セイント・ポール大聖堂の再建に関しては、Jane Lang, Rebuilding St. Paul's after the Great Fire of London, (Oxford University, 1956)を参考のこと。
*36 選考委員会については、Carol Gibson-Wood, The Political Background to Thornhill's Paintings in St Paul's Cathedral, Journal of the Warburg and Courtauld Institutes, Vol. 56 (1993), pp. 229-237を参考のこと。
*37 Thomas Tenison, Of Idolatry: a Discourse, in which is endeavoured A Declaration of, Its Distinction from Superstition; Its Notion, Cause, Commencement, and Progress; Its Practice Charged on Gentiles, Jews, Mahometants, Gnosticks, Manichees, Arians, Socinians, Romanists: As also, of the Means which God hath vouchsafed towards the Cure of it by the Shechinah of His Son, 1678
*38 この引用箇所は、18世紀英国の偶像崇拝禁止を扱った文献に多数見受けられるが、そのどれにもどこから引用しているかが示されていない。私の調査によれば、1790年発行のThe Gentleman's Magazineに引用されているが、それ以前の資料を見つけることはできなかった。その引用箇所を上げておくことにする。
The Gentleman's Magazine: and Historical Chronicle, Vol.LX, 1790, p.992
*39 ソーンヒルの8枚の絵に関しては、以下の論文を参考のこと。
Richard Johns, "An Air of Grandeur & Modesty": James Thornhill's Painting in the Dome of St· Paul's Cathedral, Eighteenth-Century Studies, Vol. 42, No. 4 (Summer, 2009), pp. 501-527
*40 16,17世紀の偶像崇拝に関しては以下の著作を参考にされたい。
John Phillip, The Reformation of Images: Destruction of Art in England, 1535-1660 (University of California Press, 1973)
Julie Spraggon, Puritan Iconoclasm during the English Civil War, (Boydell Press, 2003)
Margaret Aston, England's Iconoclasts, vol.1, (Clarendon Press, 1988)

 

関連サイト

Visitation Articles and Injunctions, Vol.Ⅱ

London and Westminster Improved

・Carol Gibson-Wood, The Political Background to Thornhill's Paintings in St Paul's Cathedral

Thomas Tenison, Of Idolatry

The Gentleman's Magazine: and Historical Chronicle, Vol.LX, 1790

・Richard Johns, "An Air of Grandeur & Modesty" 

⑥: ようこそ
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