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                           英国初期絵画における「崇高」概念について
                                         高倉 正行

                            
                                                             
                                                                                                Ⅰ.

 Sublime(「崇高」)の概念は紀元1世紀頃に書かれたと思われるPeri Hypsous(『崇高について』)の中に述べられている。この著者は未だ確定されておらず、それゆえPseudo-Longinusと名付けられている。この書は14世紀の間世に出ることはなかったが、1554年Franciscus Robortellus(1516-1567)によってギリシャ語の原典のまま出版された。その後1636年、英国のオックスフォードで、Gerard Langbaine the elder (1609-1658)によりラテン語訳が、さらに1652年にJohn Hall (1627-1656)による英訳本が出版された。しかし、これらの著作が当時英国において脚光を浴びることはなかった。
 Pseudo-Longinusによるその著作が後に大きな影響を与えたのは、フランスの詩人・批評家Nicolas Boileau-Despréaux (1636-1711)によるフランス語訳*1によってである。同時代人であった英国のJohn Dryden(1631-1700)がThe Author's Apology for Heroic Poetry, and Poetic Licence(1677)の中で両者を取り上げ、「崇高」概念を簡潔に説明した。*2 しかしボワローにせよドライデンにせよ、彼らの議論の対象は文学であって、絵画ではなかった。
 初期の英国絵画理論において「崇高」概念を取り上げ最も影響を与えた画家は、王立美術院の初代院長Sir Joshua Reynoldsである。彼のDiscourses『講演集』において「崇高」概念はきわめて重要な役割を担っている。彼のその概念は、特にラファエッロとミケランジェロの評価に深く関わり、18および19 世紀の英国絵画界に大きな影響を与えたと思われる。しかし彼の崇高概念は、彼が少年の頃読み画家になる契機となった画家Jonathan RichardsonのAn Essay on the Theory of Painting(1715)の著作に感化を受けた結果である。そこで本論ではまず18世紀以前におけるラファエッロとミケランジェロの評価について述べ、一世紀以上先行していたフランスの絵画理論の影響を受け成立した18世紀英国絵画理論における両者の評価、そこに「崇高」概念が如何に関わっていたかを考察してみたい。

                                                                                               Ⅱ.

 ラファエッロとミケランジェロの評価は盛期ルネサンス以後重要な課題になる。Giorgio Vasari(1511-1574)は『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550)の中でミケランジェロを「天上的なもの」*3、そしてLudovico Ariostoルドヴィーコ・アリオスト(1474-1533)は『狂えるオルランド』(1516)の中で「神のごとなる」*4 と形容し、同時代の他の画家たちと一線を画するほどの高い評価を与えた。一方ラファエッロにたいする評価は、上記ヴァザーリの著作の7年後に出版された、Lodovico Dolceの著作Dialogo della pittura di M. Lodovico Dolce, intitolato l'Aretino(『アレティーノまたは絵画問答』)によって高められることになる。ドルチェのこの著作はヴァザーリに対抗して書かれ、それゆえヴァザーリの絵画要素である画面構成、素描、そして色彩という3要素に関してラファエッロの方がミケランジェロよりも優れていると主張する。*5
 16世紀に見られたミケランジェロ対ラファエッロの評価構図は17世紀フランスにおいても存在していた。1648年フランスに設立された『王立絵画彫刻アカデミー』は給費生として選抜された若手画家をローマに滞在させる「ローマ賞」(Prix de Rome)を制定し、ローマにあるラファエッロの作品を模写させた。それゆえ17世紀のフランスはラファエッロの評価が高かったことが窺い知れる。例えば批評家Roland Fréart, sieur de Chambray (1606-1676)はIdée de la perfection de la peinture(1662)の中でラファエッロを天使、ミケランジェロを悪魔と呼んでいる。*6 また画家Roger de Piles (1635-1709)はCours de peinture par principes avec un balance de peintres (1708)の最終ページで画家を点数化し評価しているが、ルーベンスとともに、ラファエッロに最も高い得点(画面構成17点、素描18点、彩色12点、表現18点)をつけた。一方ミケランジェロに対して彼はそれよりも非常に低い点数(画面構成8点、素描17点、彩色4点、表現8点)を付けている。さらにフランスの王立絵画彫刻アカデミーで絵画理論の実践的説明として行われた会議*7 において過去の巨匠の7作品が取り上げられたが、そのうちのラファエッロの2作品、St. MichaelPicture of the Virgin Mary holding our Saviour in her Armsが考察の対象となった。しかしミケランジェロの作品は一点も取り上げられていない。このようにフランスの絵画界においてはラファエッロの評価の方がミケランジェロよりもはるかに高かったと思われる。

                                                                                            Ⅲ.

 一世紀以上遅れて出発した英国絵画は、その理論と実践をフランスから取り入れた。さらに1699年にラファエッロのCartoonsが修復・展示されたこともあり、18世紀前半期はラファエッロの評価の方が高かった。それ以前の1685年に出版された医師William Aglionby(1642-1705)による絵画論、Painting Illustrated in Three Dialloguesがあり、それを取り上げてみよう。この著作は旅人と友人との対話による絵画論争のほかに、「最も著名な画家たちの人生」が付け加えられており、それはヴァザーリ作の『画家・彫刻家・建築家列伝』に依拠している。それゆえアグリオンビーはヴァザーリにしたがって、ミケランジェロを高く評価しているのではないかと思われるかもしれないが、実はそうではない。

   ミケランジェロ・ブオナローティは最も偉大な素描家であり、細心の注意を払って裸体を研究した。しかし四肢の捻れや筋肉の痙攣、神経の収縮などにおいて、芸術の最も難しい部分を示すことを彼は常に目指した。彼の絵は他の画家の絵よりもはるかに深遠で難しいけれども、さほど快いものではない。彼の作風は荒々しく野蛮に近く、ラファエッロの優雅さを一切もっていない。ラファエッロの描く裸体は優美で柔らかく、まるで血肉を備えているかのように見えるが、ミケランジェロは性別や年齢を全く無視している。*8

 上記アグリオンビーのミケランジェロ否定の言葉はヴァザーリではなく、ドルチェの評価*9 に依拠し、またその著作の構成もドルチェの著作の構成と同様に対話からなり、ラファエッロの優位性を説いている。おそらくアグリオンビーに限らず、18世紀前後の英国におけるラファエッロとミケランジェロの評価はフランスの絵画理論に多くの影響を受けているように思われる。アグリオンビーは画家ではなかったが、画家Jonathan Richardsonが1715年に出版したAn Essay on the Theory of Paintingにおいても同様にラファエッロ賛歌が繰り広げられる。
 リチャードソン作An Essay on the Theory of Painting(1715)はある意味で奇妙な構成をもった絵画理論書であると云える。その書の最初の部分は当時の時代背景を受けて新古典主義理論が述べられ、その後に彼の主張する7つの絵画要素、すなわちInvention(創意工夫)、Expression(表情)、Composition(画面構成)、Drawing(素描)、Colouring(色彩)、Handling (手際)、Grace and Greatness(優雅さと偉大さ)について、主にラファエッロのCartoonsを例に取り、持論が展開される。奇妙さが現れるのはその後である。7つの絵画要素の説明で終わるかと思うと、最後にSublime(崇高)について述べられる。なぜリチャードソンはSublimeを絵画要素の中に入れなかったのであろうか。その答えはSublimeの彼の解釈にあると思われる。

 ヒュペレイデスは(ロンギノスによれば)欠点がなく、デモステネスは多くの欠点をもっていた。しかしデモステネスをかつて読んだことがある人は誰も、その後ヒュペレイデスを味わうことなどできなかった。というのもあらゆる長所を備えたヒュペレイデスは凡庸さの域を出ることは決してなかったからである。一方デモステネスは幾つかの長所を他を抜きんでてもっていた。これがロンギノスの判断であるにせよそうでないにせよ、確かなことは、ほどほどに優れた点をあまた持っていれば非難を受けることはないであろうが、大いなる喜びを与えることはない、ということだ。一方「崇高」が見いだせる場合は必ず、多くの不完全さがあっても、魂を揺さぶり恍惚とさせる。心は満たされ、満足する。欠けているものは何もないように思われ、不適切であるものは何もないように思われる。あるいは有ったとしても、すぐに忘れてしまう。「(中略)」それゆえ画家は欠点を避けること、程々に旨くやりこなそうとすることに汲々とすべきではない。画家は喜ばせることだけではなく、驚かせることを心がけなければならない。まさにこのことを頻繁に口にする度喜びを感じる偉大なる画家たち(というのもそうすれば彼らの作品が私の心に浮かんでくるからである)は成し遂げたのである。ラファエッロほどこれを成し遂げた画家は他にいない。しかしミケランジェロほど崇高の力を余すことなく示した例はない。彼は素描の崇高、そして偉大さを持っていたので、芸術の天才と考えられてきたし、今後もそのように思われるだろう、これらの美点とともに現れる悪評の欠点があるにもかかわらず。*10    

           

 上記の訳出箇所はリチャードソンの"Of the Sublime"の冒頭の部分であり、古代ギリシャの弁論家ヒュペレイデス(B.C.390頃-322)とデモステネス(B.C.384頃-322)の比較は明らかにPseudo-LonginusのPeri Hypsous(『崇高について』)第34章から、「多くの不完全さ」は第33章、そして「魂を揺さぶり恍惚とさせる」は第1章から取られている。中でも彼にとって特に影響を受けていると思われる箇所は、第33章の次の言葉だろう。

 私について言えば、もっとも偉大な自然の才はもっともキズが多いことを私は十分に知悉している。すべてにわたっての正確無比はことをまるっきり小さなものにしてしまう危険をもつ。偉大なものにあっては、あまり大きな富におけるのと同様に、何かしら見おとされるものがあって当然なのだ。程度の低い、平凡な生来の性質が危険をおかしてまで高貴を求めようとしないのでたいてい失敗することはないのに対して、偉大なものはそれ自体がもともと失敗をやってのけるようにできている。*11

 リチャードソンとロンギノスの上記の言葉を比較してみよう。ロンギノスの「すべてにわたっての正確無比」はリチャードソンの「あらゆる長所を備えたヒュペレイデス」に置き換えられ、絵画にあっては7つの絵画要素を程なく熟しても「魂を揺さぶり恍惚とさせる」絵にはならないと、リチャードソンは考えたように思われる。彼のこの考えを敷衍すれば、魂を揺さぶり恍惚とさせる「崇高」は彼の主張する絵画要素の否定に繋がるのではなかろうか。彼のAn Essay on the Theory of Painting(1715)において7つの絵画要素はラファエッロ作Cartoonsを例に取り説明されているが、彼のその著作においてはそれを否定するものとして「崇高」概念が登場している。Sublimeを絵画要素に加えると、当然のことミケランジェロが最高位の画家と云うことになるだろう。絵画要素全般にわたってラファエッロのCartoonsが取り上げられ、それらの作品から絵画理論が構築されているのだが、最後に付加された「崇高について」を絵画要素に含めると、絵画理論は崩壊するとリチャードソンは考えたのではなかろうか。しかしリチャードソンはミケランジェロの作品にたいしてラファエッロのCartoonsの魅力とは異なる恍惚を感じていたのであり、絵画論を推敲するにあたって「崇高」を除外することはできなかったと考えられる。
 「崇高について」の章で取り上げられたミケランジェロの作品はThe Conversion of Saul(1546-50)とMartyrdom of St Peter(1542-45)の2作品であり、ロンギノスからの引用の後はそれらの絵の分析に費やされている。しかし崇高という概念でそれらの絵が分析されているわけではなく、ロンギノスからの引用とミケランジェロの作品の分析とは分断されているように感じられる。おそらくこの時点ではリチャードソンは「崇高」という概念がミケランジェロの作品の魅力を伝えるには最適であると感じたものの、絵画において「崇高」を達成するための方法を見いだせなかったのではなかろうか。その根拠は初版の1715年の10年後に再発行された同書から窺い知ることができる。
 An Essay on the Theory of Paintingの初版(1715年)と再版(1725年)を比較すると、"On the Sublime"の項目で大きく異なる。否、異なると云うよりはむしろリチャードソンは全面的にその項目を書き換えたといった方がいいかもしれない。再版のその項目の冒頭で、彼は「崇高については度々語られるが、その言葉の意味が一致することはほとんどない」と述べ、「崇高」の意味を彼なりに定義しようとする。

 一般的に私にとって、優れたものの中で最良のものが卓越したものであり、卓越したものの中で最も卓越したものが崇高である。人の気高さは主に、思考能力、そして自分の考えを他者に伝える能力にある。それゆえ書き物において、最良に選ばれた言葉で私たちに伝えられた最も偉大で、最も高貴な思考、イメージ、あるいは感情こそ、完全な崇高、賞賛に値するもの、驚嘆すべきものであると私は思う。*12

 ここでリチャードソンは崇高を「優れたもの"good"」→「卓越したもの"excellent"」→「崇高"sublime"」と定義しているが、崇高の重要性を理解することはできるものの、その内容は示されていない。さらにこれは修辞の視点から考えられたものであって、絵画の視点からではない。ロンギノスは詩、修辞学、雄弁術における崇高について述べたが、リチャードソンに先立ち文学の方面で崇高概念を広めたのはフランスの詩人・批評家Nicolas Boileau (1636- 1711)であった。彼は1674年にPeri Hypsousのフランス語訳Traité du sublimeを出版し、その英訳が1712年にロンドンで出版された。リチャードソンはおそらくAn Essay on the Theory of Paintingの初版を推敲するにあたってボワローを読んでいなかったと考えられる。というのも1715年の初版においてボワローの名前は登場せず、1725年の再版においてその名前が度々現れている*13 からである。再版にあたってリチャードソンはボワローのRéflexions critiques sur Longin (1694-1710)を読み、初版とは異なる崇高概念の説明に移行したように思われる。
 リチャードソンの崇高概念は幾人かの他者のそれとは異なるとしながらも、その定義に関して「崇高なるものとは何か、何でないのか、確信を持って云えないことを私は白状する。というのもあらゆる場合においてどのような思考が最上に卓越したものであり、どの表現方法が最も優れたものかを言うことができないからである。それは自分自身で判断しなければならない」*14、と説明する。しかしながら彼は自身の判断として、「崇高とは、実体があるにせよそうでないにせよ、我々に最も有益に伝えられた最も偉大で、最も美しい思考であると、私は思う」*15と述べる。

崇高を目にすると、魂は高揚し、魂そのものについてより高められた考えを持つに至る。そして魂はまるで魂が賛美するものを魂自体が生み出したかのように、喜びと高貴な自信に満ちあふれる。崇高は忘我や恍惚の状態をもたらし、我々の中に驚きと混ざったある賛美の感情を作り出す。*16

さらに崇高と絵画の規則に関して、リチャードソンは次のように述べる。

先の論文で私は絵画の規則と考えられるものを示した。しかしそれらの規則を理解し、それら全てを実践したとしても、なお一つのものが欠けていると言わざるを得ない。さあ、崇高を達成するように努力せよ。*17

 1715年の初版本では絵画の規則と崇高概念との関係が明瞭ではなかったが、再版では絵画規則を守ったとしても優れた絵画を生み出すことはできず、崇高を求めよと、リチャードソンは主張する。どのような規則が絵画の基本として与えられても、「金糸のようなさらなる何かが織り込まれ、全編を通じて流れていなければならない」。*18 規則を遵守するだけでは凡庸に過ぎず、それは精神の貧弱さを露呈することになってしまう。それゆえ「崇高を追求するものは、我々がかつて目にしたことがある全てのもの、あるいは芸術や自然がかつて生み出したものを陵駕する何かについての概念を形成する」*19 ことが必要となる。隣国のフランスより120年ほど遅れて出発した英国絵画の初期において、絵画の規則を構築することが急務であったが、遅れたことが一因で規則を超えるなにか=「崇高」の概念を英国絵画は取り入れることになったのではなかろうか。フランスにおいてボワローのフランス語訳は文学の方面で影響を与えることになったが、英国では崇高概念はリチャードソンによって文学よりも早く絵画に取り入れられた。後にこれが英国絵画のひとつの特色になったと思われる。
 さらに初版と再版では崇高概念による画家の評価に大きく異なる点がある。初版では崇高概念の説明の後にミケランジェロの2作品が取り上げられたが、再版ではそれらの作品は取り上げられていない。

 ここで立ち止まってはならず、完成についての独自の考えを持ちなさい。最良の巨匠たちが成し遂げた最上のものは、人が到達し得る最上のものとは考えられない。もしラファエッロが現れなかったら、レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロが到達し得る最上の地点へと芸術を導いたと考えられたかもしれない。*20

上記の文章は、裏を返せば、レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロが成し遂げた芸術の完成度を、ラファエッロがさらなる高みへと押し上げたことを意味する。実は初版と再版の間に、リチャードソンは別の論文を発表している。それは1722年に出版されたAn Account of Some of the Statue, Bas-reliefs, Drawing and Pictures in Italy, &c, with Remarksで、これは息子のジュニアをイタリアに行かせ絵の調査を行わせた結果生まれた本である。その中で、彼はミケランジェロについて次のように述べている。

ミケランジェロは凄まじい勢いで現れ、稲妻の閃光のごとく偉大な作風で世界を驚嘆させた。それゆえ彼が賞賛されるのも不思議ではない。彼は絵画における宗教改革者のルターであった。ラファエッロがミケランジェロに負うているように、我々はラファエッロに負うている。*21

 ここで述べられていることはミケランジェロがいなければラファエッロは存在せず、ラファエッロがいなければ英国絵画は現在のように存在していない、ということであろう。このように述べながらも彼は、「実は彼の得意とするところは絵画ではなく彫刻であった」と指摘し、画家としてのミケランジェロをさほど評価しない。時間軸に沿って考えれば、初版において崇高概念による巨匠の評価の例としてミケランジェロの作品があげられたが、1722年An Account of some of the Statue, Bas-reliefs, Drawing and Pictures in Italy, &c, with Remarksではその評価は陰りを見せ、再版ではミケランジェロの名前は消え失せ、ラファエッロがその地位を奪っているのである。初版と再版の10年間の間に、リチャードソンは崇高を表現した画家をミケランジェロからラファエッロへと変更したのであり、この変更が英国におけるミケランジェロ評価をさらに後退させることになったと思われる。ドルチェ以降貶められてきたミケランジェロの評価を回復するにはさらに半世紀以上待たねばならなくなったのである。
 
                                                                                              Ⅳ.

 フランスの王立絵画彫刻アカデミー(1648)に遅れること120年、ジョージ3世の認可を得て英国に最初の王立美術院が設立された。その初代院長のレノルズにとって王立美術院の運営のみならず、画学生が習得するための規則を構築することが急務であった。しかし彼は絵画規則の構築においては、先行するイタリアやフランスのアカデミー規則に準拠することはなかった。否、むしろ確立された絵画規則の弊害を指摘する。*22 英国が獲得していたラファエッロ後期の作品である7枚のCartoonsによってそれらの規則の妥当性を否定する。
 一例を挙げてみよう。レノルズがフランスの画家Charles Alphonse du Fresnoy によって書かれた絵画論 De Arte Graphica(1695)について取り上げている一節*23 を訳出してみることにしよう。

主題の主要人物は、その他の人物からその人物を際立たせるために、最も強い光のもと、絵の中央に置かれなければならない。この規則に厳密に従わざるをえないと考えている画家は、不必要な難事に遭遇することになるだろう。構図の類似性に深く陥ってしまったり、その規則の遵守と相容れない多くの美を奪われてしまうことになるだろう。この規則の意味は、次のこと以上に敷衍されないし、またされるべきではない。すなわち主要人物は一見してすぐさま認識されなければならないと云うことである。しかし最も強い光が主要人物に注がれる必要はないし、主要人物が絵の中央に置かれる必要もない。その人物が置かれている場所、もしくは他の人物がその絵を見るものに主要人物が誰であるかを分からせるだけで十分である。*24
      
 上記の例として、レノルズはラファエッロ作Cartoonsの中のChrist's Charge to Peterfig.1)、Preaching of St.Paulfig.2)、Elymas the Sorcererfig.3)を挙げ、主要人物が絵の中央に置かれていないことを指摘する。さらにLe Brun作Tent of Darius(fig.4)では主要人物であるAlexanderは絵の中央に置かれず、また最も強い光が彼に注がれていないが、他の全ての人物たちの注視によってすぐさま彼を認識すると、レノルズは述べる。25しかし彼の講演の目的は確立された絵画理論の矛盾を論い、規則の及ばないところに画家を持ち上げようとしているわけではない。その目的とは、

それらの規則の根拠を画家に教えること、画家が芸術についての偏狭な考えを受け入れることを妨げること、全ての規則が生まれ属するところの心の情熱や情愛と親密に触れ合うことに目を向けることによって、様々に錯綜した規則やその例外から精神を解き放つことである。*26

 

レノルズがここで強調しているのは画家の精神・心であり、そこにこそ美が存在する。

 我々が生業としている絵画の目的は美である。これを発見し表現することが我々の務めである。しかし我々が探求している美は普遍的で知的なものである。それは心にのみ存在するイデアである。眼はそれを見ることはなく、手はそれを表現することはない。それは画家の心の中に住まうイデアであり、画家はそれを伝えようと常に努力しているのである。*27

 また他の箇所で絵画の目的を「想像力を搔き立てる」*28ことと述べており、これらのことを考え合わせると、画家は自然の中に美を見いだしそれを画布に表現することを責務とするが、その美は不完全であるがゆえに想像力を駆使して画家の心の中に完全なる美を創造しなければならない、とレノルズは主張したと考えられる。彼にとって画家の精神、その働きである想像力が全てなのである。画家の想像力という観点から、レノルズはラファエッロとミケランジェロを比較する。

ラファエッロが存在するに至ったのはミケランジェロのおかげである。ラファエッロは、ミケランジェロのおかげで彼のスタイルの壮麗さを獲得できたのである。彼は思考を高めること、威厳のある主題を考えることをミケランジェロから学んだ。彼の才能はいかに光り輝いていようとも、もし彼がミケランジェロとの接触によってもたらされた火花を掴み損ねたのならば、それは可燃性物の中の火種のように、永遠にくすぶり続けただろう。そしてその炎は高熱を帯び激しく燃えさかることはなかっただろう。しかしながらさらに純粋で、常に変わることなく、慎み深い炎であったことは認められなければならない。全体的に見て我々の判断はラファエッロの優位に傾いているが、ラファエッロは、他のものは何も必要ではないとか、何も欠けたものがないと感じさせるほど、我々の心を強く完全に捕らえることはなかった。ミケランジェロの主要作品の与える印象は、エドメ・ブーシャルドンがホメロスを読んでいたときに感じたこと、すなわち彼の体全体が膨張するように思われ、そして彼を取り巻くすべての自然が原子に縮小した、という感覚と完全に合致する。
 これら二人の偉大な画家を互いに比較してみると、ラファエッロにはより豊かな審美眼と空想力があり、ミケランジェロにはさらに優れた才能と想像力があった。一方は美に優れ、他方は活力にあふれていた。ミケランジェロは詩的インスピレーションに優れ、彼の着想は広大で崇高である。彼の描く人物はより優れた種類の存在であり、我々自身の種に属すると思わせるようなものは、それらの人物の行動や態度にも、手足や容姿の描き方にも、なにもない。ラファエッロの着想は慎み深く、高貴で、主題に実に良く適合しているけれど、彼の想像力はさほど高尚ではなく、彼の描く人物は我々自身の卑小な存在からさほどかけ離れたものではない。ミケランジェロの作品は力強く、独特で、際だった特色がある。それらは非常に豊かで満ちあふれた彼自身の心から生まれ出たように思われる。それゆえ彼は決して他者の助けを求めて外に目を向ける必要もなかったし、またそれを蔑むようなこともなかった。ラファエッロの題材は全体的に借り物である、その高貴な構造は彼自身のものであるけれど。この類い希な画家のすばらしさは、彼の描く人物の礼節、美しさや威厳に、絵の考え抜かれた構成、素描の正確さ、純粋な審美眼、他の画家の考えを巧みに自分の目的にあわせるやり方にあるかもしれない。その判断力において彼を凌ぐ者はなく、そこに自然に対する彼独自の観察、ミケランジェロの活力、古代彫刻の美と素朴さを、彼は結びつけたのだ。それゆえラファエッロとミケランジェロ、どちらを最高位に置くかという問題に関して、次のように答えなければならない。絵画のよりすぐれた特質を他の誰よりもより上手く組み合わせることができた画家にそれが与えられるとすれば、間違いなくラファエッロが最高位に置かれることになるだろう。しかしロンギノスが考えていたように、人の手によるもので達成できうる最高の特質である崇高(sublime)が他のすべての美の欠如を十分補い、他のすべての欠点を償うものであるならば、そのときミケランジェロがその地位に立つことになろう。*29

 ここにいたってリチャードソンのラファエッロの優位はレノルズによってミケランジェロに座を譲る。リチャードソンによる再版で、前述の「もしラファエッロが現れなかったら、レオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロが到達し得る最上の地点へと芸術を導いたと考えられたかもしれない」という言葉は、レノルズによって「ラファエッロが存在するに至ったのはミケランジェロのおかげである」という言葉に置き換えられる。
 盛期ルネッサンス以来ミケランジェロの作風を否定する言葉にたいし、「ミケランジェロの欠点は卑しい低俗な心から生まれるようなものでなく、最高の美を生み出した同じ本源から生じたものであり、それゆえ彼以外誰も犯すことができない」*30ものであると、レノルズは主張する。しかしレノルズのミケランジェロ評価は彼が王立美術院初代院長になってからのものではない。ジョンソン博士主催のIdlerに1759年10月20日にレノルズが投稿した文章には、同様にミケランジェロにたいする賛辞を読み取ることができる。これは1752年彼がイタリアに赴き、システィーナ礼拝堂のミケランジェロ作「最後の審判」を見て感銘を受けた結果に他ならない。崇高概念によるミケランジェロ賛美は英国で初めてリチャードソンによってもたらされたが、それはラファエッロ賛美に変わり、半世紀を経てレノルズによって再びミケランジェロ賛美へと移行したのである。

 


1* Traité du sublime, trad. par Nicolas Boileau, Paris, 1674 
2* The Works of John Dryden, vol.5,(1808), p.107, pp.108-9
3* ヴァザーリ、『レネサンス画人伝』(白水社、2004)、p.215
4* アリオスト、『狂えるオルランド』(名古屋大学出版局、2002)、p.185
5* 『アレティーノまたは絵画問答』、ロドヴィーコ・ドルチェ作(中央公論美術出版、平成18年)、
  p.91、p.102、p.111
6* Roland Fréart, sieur de Chambray, Idée de la perfection de la peinture demonstrée par les principes de l'Art, et par des Exemples conformes aux Observations que Pline et Quintilien ont faites sur les plus celebres Tableaux des Anciens Peintres, mis en Parallele à quelques Ouvrages de nos meilleurs Peintres Modernes, Leonard de Vinci, Raphael, Jules Romain, et le Poussin, 1662, p.67
7* Conférences de l'Académie royale de peinture et de sculpture, pendant l'année 1667
8* William Aglionby, Painting illustrated in three diallogues : containing some choice observations upon the art, together with the lives of the most eminent painters, from Cimabue, to the time of Raphael and Michel Angelo : with an explanation of the difficult terms, 1685, pp.81-82
9* ibid., pp.101-102
10* Jonathan Richardson, An Essay on the Theory of Painting (1715),  p.214
11* 小田実、「崇高について」(河合文化教育研究所、1999年)、pp.163-164
12* An Essay on the Theory of Painting, (1725),  p.227
13* ibid., 1725, p.234
14* ibid., 1725, p.247
15* ibid., 1725, p.248 
16* ibid., 1725, p.256
17* ibid., 1725, p.257
18* ibid., 1725, p.258
19* ibid., 1725, pp.259-260
20* ibid., 1725, p.261
21* Jonathan Richardson, An Account of some of the Statue, Bas-reliefs, Drawing and Pictures in Italy, &c, with Remarks (1722), p.273
22* Discourses on Art: Sir Joshua Reynolds (The Paul Mellon Centre for Studies in British Art), 1997, edited by Robert R. Wark, p.17
23* Charles Alphonse du Fresnoy, De Arte Graphica (trans. Dryden, 1695) p.19
24* Joshua Reynolds, op. cit., pp.155-156
25* ibid., p.156
26* ibid., p.162
27* ibid., p.171
28* ibid., p.59
29* ibid., pp.83-84
30* ibid., p.276

 

 

関連サイト

The Works of John Dryden, vol.5

・Roland Fréart, sieur de Chambray, Idée de la perfection de la peinture

Conférences de l'Académie royale de peinture et de sculpture, pendant l'année 1667

・William Aglionby, Painting illustrated in three diallogues 

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