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     18世紀英国におけるRAPHAEL作CARTOONSについて
                                  
​                                  高倉 正行
    

                      Ⅰ.はじめに

 1847年8月、ロンドン王立美術院(Royal Academy of Arts in London)のSummer Exhibitionが近づいてきた頃、画学生であった二人の生徒がラファエッロの作品について議論していた。その二人とはWilliam Holman Hunt(20歳)とJohn Everett Millais(18歳)である。二人はラファエッロ・サンツィオのCartoonsの作品を高く評価したが、議論が『キリストの変容』(Transfiguration 1516-1520)に移ると、彼等の論調は変化し、その絵が単純なる真実を無視していること、また使徒達の尊大な態度やキリストが霊的ならざる気取ったポーズで描かれていることを非難した。とりわけ、前景右側に描かれている、てんかんを起こしている少年の不自然な姿勢に非難が向けられた。「僕たちの最終的な判断として、この絵は、イタリア芸術のデカダンスへ注目すべき一歩を踏み出している。」この考えを近くにいた他の画学生に話したところ、「それじゃ君たちは、ラファエッロ以前の画家たちだね」*1 と言われ、彼等2人はその名称を受け入れることにした。
 ここで問題にすべきは、Pre-Raphaelite Brotherhood(ラファエロ前派同胞団)という名称の由来ではなく、19世紀中葉においても若い画学生達はラファエッロの作品に興味を抱いていた、あるいは王立美術院の絵画学校でラファエッロの作品の模写が頻繁に行われていたと云うことである。ロンドン王立美術院の設立は1768年に遡るが、初代院長であったSir Joshua Reynoldsの講演を纏めたDiscoursesでもラファエッロのCartoonsのすばらしさが称揚されている。この事実は英国において100年近くラファエッロの作品が絵画研究の基礎に置かれていたということを示すものであろう。
 これは隣国のフランスにおいても同様であった。フランスではロンドン王立美術院設立に120年先立つ1648年に「王立絵画彫刻アカデミー」(Académie Royale de Peinture et de Sculpture)が設立され、さらに1666年になるとその支局がローマに置かれた。1674年、王立絵画彫刻アカデミーは「ローマ賞」(Prix de Rome)を制定し、その賞を勝ち得た若い芸術家をローマ支局に送り、3年から5年の間イタリア美術、就中ラファエッロ作品の模写をさせたのである。
 フランスの「王立絵画彫刻アカデミー」におけるラファエッロの取り上げ方には2つの側面があった。一つは、ローマ支局ではルイ14世の宮殿を飾るラファエッロの作品のレプリカを作ることであり、他方は、ルイ14世所有のラファエッロやプッサンの作品分析を通じ絵画理論を構築することであった。それゆえ、ラファエッロ作品の研究においては英国よりもフランスの方が先んじていたと考えられる。
 他方、英国には「王立絵画彫刻アカデミー」のような制度はなかった。したがって、当時若い画学生は裕福な家に生まれるかパトロンを見つけることができなければ、イタリアに行きラファエッロの作品を研究することなどできなかったのである。しかし、英国にはイタリアにもフランスにもないラファエッロの作品があった。これは、システィーナ礼拝堂を飾るために教皇レオ10世からラファエッロに依頼されたタペストリーのCartoons(実物大下絵)である。フランスのラファエッロ研究は、バチカン宮殿の『ラファエロの間』(Stanze di Raffaello)やアゴスティーノ・チーギ(Agostino Chigi)のため建てられた別宅ヴィッラ・ファルネジーナ(Villa Farnesina)を飾る作品群を中心に行われたのにたいし、英国ではCartoonsを中心にラファエッロ研究が行われたのである。それゆえ、英国絵画の研究はラファエッロのCartoonsの研究なくしては成り立たない。本論では英国におけるラファエッロのCartoonsの歴史を辿ってみたいと思う。

                 Ⅱ.ラファエッロのタペストリーについて

 レオ10世が1513年教皇に就任すると、彼はローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂を新たに飾り付けすることに着手した。すでに天井には彼以前の教皇ユリウス2世の命による「創世記」を主題にしたミケランジェロの天井画が描かれていた。祭壇を挟む両脇の壁は3層に分かれ、最上段には窓と窓の間に歴代ローマ教皇の肖像が等身大で、中段にはギルランダイオ、ボッティチェッリ、ペルジーノ、ロッセッリらによるフレスコ画が描かれていた。最下段には金銀の布のフレスコ画が描かれていたが、レオ10世はこの層を飾る10枚のタペストリーのCartoonsをラファエッロに依頼したのである。その時期は、1515年6月と1516年12月の2回にわたってラファエッロに制作の代金が支払われた記録が残っているので*2、これ以前すなわちレオ10世の教皇就任後から1515年6月までのことであったと思われる。
 教皇がラファエッロに依頼したタペストリーの主題は『使徒言行録』から取られ、復活後のキリストおよび使徒達を扱ったものである。10枚のタペストリーの主題は大きく2つのグループに分けられる。一つは、聖ペテロの働きを主題にしたもので、The Miraculous Draught of Fishes『奇蹟の大漁』、Christ's Charge to Peter『キリストのペトロへの啓示』、The Healing of the Lame Man『足の不自由な男の快癒』、The Death of Ananias『アナニアの死』の4作品である。他方は、聖パウロの働きを主題にしたもので、The Stoning of Stephen『ステファノへの投石』(cartoonは現存せず)、The Conversion of Paul『パウロの回心』(cartoonは現存せず)、The Blinding of Elymas『エリマスの失明』、The Sacrifice at Lystra『リストラの犠牲』、Paul in prison『獄中のパウロ』(cartoonは現存せず)、Paul Preaching in Athens『アテネでのパウロの説教』の6作品である。
 ラファエッロのCartoonsは、15世紀初頭タペストリーの工房で最も有名であったブリュッセルの織師ピエター・ファン・アールスト(Pieter van Aelst)に送られ、そこで機織り機の下に置けるように幅およそ1メートルの短冊状に切られた。10枚のタペストリーのうち、7枚のタペストリーが1519年12月26日にシスティーナ礼拝堂に届けられ展示された。残り3枚のタペストリーはいつ届けられたか判然としないが、1521年12月レオ10世の逝去時の美術品目録に記載があるので、それまでにシスティーナ礼拝堂に届けられたはずである。これら10枚のタペストリーは常にシスティーナ礼拝堂に掛けられていたわけではない。展示は年に数回、聖体祭(Corpus Christi)等の祝日に限られていた。実はこのCartoonsによって作られたタペストリーは他にもあり、4セットが16世紀初頭に制作されている。
 システィーナ礼拝堂のタペストリー以外に作られたこの4セットのうち、英国に関わりのあるタペストリーは1540年代初頭にヘンリー8世が所有したものである。彼によるラファエッロのタペストリー入手については主に二説あり、その一つは教皇レオ10世から贈られたとするもの*3、いま一つはヘンリー8世が購入したとする説である。前者の贈りもの説の根拠は、1521年レオ10世が"Defender of the Faith"(信仰の擁護者)の称号をヘンリー8世に授与したことにある。彼は英国国教会を樹立する以前熱心なローマ・カトリック教徒で、ルターの宗教改革を批判するDefence of the Seven Sacraments『七秘蹟の擁護』*4 を著した。その書をレオ10世が認め、これにたいする感謝状*5 を彼に送った。しかしその手紙にはラファエッロのタペストリーの記述は一切なく、この贈りもの説の客観的な根拠はない。
 それにたいし、購入説*6 にはそれなりの根拠がある。ヘンリー8世は美術愛好家であり、さまざまな工芸品を購入したが、就中タペストリーには莫大な金額を投じた。これらのタペストリーはホワイトホールやハンプトンコートの衣装部屋に置かれた。ホワイトホールの管理人であったSir Anthony Denny (1501-1549)の残した記録(1542年4月24日)*7 に、「使徒行伝の物語のアラス織り壁掛け2作品」が記載されており、またその年の11月3日に「使徒行伝の物語のアラス織り壁掛け7作品」がホワイトホールに到着したとある。さらにこれら7作品はフィレンチェの商人John Baptist Gualteroteから購入されたと記されている。使徒行伝の物語のアラス織りとはとりもなおさずラファエッロの『使徒言行録』を主題にしたタペストリーであろう。したがってラファエッロのタペストリー10作品のうち9作品が2回にわたって1542年11月までにヘンリー8世のもとに届けられたと考えられる。ラファエッロのこれらのタペストリーはチャールズ1世の処刑時まで英国にとどまったが、1650年に王室の美術品は競売にかけられ、Robert Houghtontという人物が購入した。その後作品は転々とし、1844年ベルリンのKaiser Friedrich Museumに落ち着いたが、1945年の戦火で焼失した。
 ヘンリー8世のセットよりも早い時期に作られたタペストリーがある。これはFrançois 1世の依頼によるもので、1533年に織られた。このタペストリーは1797年までフランスの王立コレクションにあったが、その年金糸が原因で焼失した。*8 さらに現在マドリッドのPatrimonio Nacional(パトリモニオ・ナシオナル、国家財産管理局)に保存されているラファエッロのタペストリーもヘンリー8世所有のものと同じぐらい古いものである。これはスペインのフェリペ2世(1527年-1598年)によって購入されたもので、1598年の彼の死後作成された財産目録の中にその記述がある。同様に現在マントヴァのPalazzo Ducale(ドゥカーレ宮殿)に保存されているオリジナルのCartoonsから織られたタペストリーは、ゴンザーカ家の紋章がタペストリー上部のボーダーに付いていることから、エルコーレ・ゴンザーガ(1505年-1563年)が1550年頃購入したものであろう。

                Ⅲ.ラファエッロ作Cartoonsについて

 10枚のラファエッロ作Cartoonsがピエター・ファン・アールストの工房に届けられたとき、その模写が作られたと思われる。というのも現存している同作家のCartoonsには輪郭線に沿って小さな穴が開けられていて、この穴はその下に画紙を置き、正確な輪郭線を写す作業のためのものであったと考えられるからである。1520年代になると、オリジナルのCartoonsは別の工房、Jan van Tiegen(ヤン・ファン・ティエーゲン)とその仲間達のもとに届けられた。そこでまたいくつかのタペストリーが織られた。それゆえオリジナルのCartoonsは1540年代までブリュッセルのティエーゲンのもとにあったと思われる。*9 その後幾つかのタペストリーが織られたという報告はあるものの、それらが実際にオリジナルのCartoonsから作られたかどうか、判断することは難しい。というのも前述したように、ラファエッロが描いたCartoonsは穴を空けられ短冊状に切られて使われたがゆえにその損傷は激しく、再び使える状態になかったのではないかと推測されるからである。価値があれば歴史に登場すると思われるが、それはなく、しばらくの間オリジナルのCartoonsの行方は不明になる。
 それが再び歴史に登場するには皇太子であったチャールズを待たねばならない。1623年チャールズはバッキンガム公とマドリッドに滞在していたが、同年3月28日に、イタリアにあるラファエッロのCartoonsを購入するために金を無心する手紙を故国に送る。*10 この購入に際しては画家であり外交官であったルーベンスが介入していた。ルーベンスと英国王室との関わりは深く、チャールズ1世の肖像画のほか、1621年にはホワイトホールのBanqueting Hallの天井画を描いている。彼は1600年から1608年までイタリア(ヴェネツィア、ジェノバ,ローマ)にいて、特にジェノバではラファエッロのCartoonsの一つ、Paul Preaching in Athensを模写しているので、この時期他のオリジナルのCartoonsも同地にあったと思われる。彼は、ネーデルラントとスペインとの12年間の休戦期(1621年)後、スペイン・ハプスブルク家の君主たちにより外交官として重用され始めた。おそらくチャールズがマドリッドに滞在していた時期、ルーベンスもそこに居て、彼等は出会い、ラファエッロのCartoonsを買い取るようにチャールズに進言したと思われる。その時すでにCartoonsは大きなダメージを受けていて、破格の安値の300ポンドで買い取られた。*11
  チャールズはそのCartoonsでタペストリーを作ろうとした。というのも、彼は1629年Mortlakeにタペストリー工場を創設し、彼の秘書であったFrancis Crane(1579-1636)を創始者として迎えたからである。クレインはこれらのCartoonsからコピーを作り、そこから幾つかのタペストリーが織られた。その後1639年にチャールズ1世のアート・コレクションを調査したオランダ人画家Abraham van der Doort(アブラハム・ファン・デル・ドールト1575/1580?-1640)は、5枚のCartoonsがモートレイクのタペストリー工場にあり、残りの2枚はホワイトホールに置かれていた*12 と記している。クレインによるコピーによって幾つかのタペストリーが作られた後、再びオリジナルのCartoonsの消息は途絶えるが、それらは王室内にあったことは間違いない。おそらくクレインのコピーによってそれらの用途は必要がないものとして、どこかに保存されていたと思われる。それらはクロムウェルのCommonwealth時代を生き残り、王政復古のチャールズ2世に引き継がれる。この時代にCartoonsはルイ14世に売られようとしたが、Danby卿(Thomas Osborne, 1st Duke of Leeds 1631 - 1712)に説得され、イギリスに残った。
 ウィリアム3世(在位1689-1702)が王位に就いたとき、オリジナルのCartoonsが再び歴史に登場し、英国絵画に大きな変化を与えることになる。チャールズ1世時代まではCartoonsはタペストリーを織るための単なる下絵でしかなかったが、ウィリアム3世以降Cartoonsそのものが芸術的価値を持ち、古典的な美の代表となったように思われる。王位に就くやいなや彼は、画家のWilliam Cookと王立コレクションの絵画管理官であったParry Waltonに、短冊状に切られた各々のCartoonsを元の状態に修復することを命じたのである。そしてさらには建築家のChristopher WrenとWilliam Talmanにハンプトンコートの改築を行わせ、それらのCartoonsを収容するための一室を作らせた。1699年9月にCartoonsはその部屋に掛けられる。その時の様子をフランスの銅板画家Simon Gribelin(1661-1733)は1720年に銅版画に残している。(Fig.1)この絵によれば、左右に長い部屋の中央にマントルピースが置かれ、両端にはドアが描かれており、マントルピースの上にはThe Miraculous Draught of Fishes、その左側にはThe Healing of the Lame ManThe Blinding of Elymasが、右側にはThe Sacrifice at LystraPaul Preaching in Athensが並び、さらに左側のドアの上にはThe Death of Ananias、右側のドアの上にはChrist's Charge to PeterCartoonsが置かれている。高さ、幅が最も小さいThe Miraculous Draught of Fishesをマントルピースの上に置き、その両脇に高さ・幅のよく似た2枚のCartoonsをそれぞれ配置し、2つのドアの上には同じ幅のCartoonsが置かれているわけである。それゆえ、これらの配置は主題に沿って並べられたものではなく、おそらく各Cartoonsの大きさによって考えられたものであろう。
 メアリー2世が1694年天然痘で亡くなり、ウィリアム3世自身も1702年落馬が原因で亡くなったあと、メアリー2世の妹アンが王位に就いた。グリベリンの銅版画に先立ち、1703年詩人・医師であったRichard Blackmore(1654-1729)は匿名で詩集A Hymn to the Light of the Worldを著し、その中でラファエッロのこの7枚のCartoonsを取り上げ、それぞれ詩を書いた。

  見知らぬ人よ ここに止まれ この部屋に立ち
  偉大なラファエッロの手による奇跡を見よ
  彼の技はあらゆる芸術の子を支配する
  他の画家は体しか描かないが 彼の人は魂を描く
  他の誰でもなく ラファエッロの絵筆しか表すことができない
  そのような詠嘆を汝が眼は抱くことになろう*13

 上記の冒頭の詩に始まり、ブラックモアは各々のCartoonsを詩の形式で述べる。最初はThe Story of AnaniasThe Death of Ananias)、最後はOur Saviour and his Twelve ApostlesChrist's Charge to Peter)で終わり、この順序はグリベリンの銅版画に描かれた左から右への順序と一致している。それゆえ彼はハンプトンコートに行き、展示されたCartoonsを見たと思われる。おそらくこの詩がラファエッロのCartoonsについて宗教的に取り上げられた最初のものだろう。しかしここに審美的な意味はなく、宗教的・道徳的な讃美があるだけである。 

                  Ⅳ. Cartoonsの版画について

 すでに述べたように1699年ハンプトンコートにCartoonsは展示されたが、公開という質のものではなく、王室に何らかのコネクションがなければ見に行くことができなかった。それゆえCartoonsが一般に浸透する契機にはならなかった。その契機の発端になったのは、前述のシモン・グリベリンによる銅版画である。フランス中央部のブロワ生まれの彼は1680年頃渡英し、ロンドンのロングエーカーで亡くなった。彼は1707年Charles Le Brun作The Tent of Dariusの銅版画で名をあげ、同年、ハンプトンコートのCartoonsの銅版画を出版した。それはThe London Gazetteに1707年5月(15-19)と11月(6-10)の2回にわたって宣伝された。これらは本用のサイズであったため小さく、それゆえ廉価の15シリングで多く売れた。1720年に再版されたが、このとき先にあげたハンプトンコートのCartoons展示室の銅版画(Fig.1)が加えられ、そこには上部にラファエッロの、下部にアン女王の似顔絵が描かれた。
 彼の銅版画の成功は他の彫版師を英国にもたらした。18世紀初頭英国には優れた銅板画家はおらず、それゆえ英国はフランスの彫版画家を仰ぎ見るしかなかった。グリベリンの次に英国にやってきたのはNicholas Dorigny(1658年-1746年)で、1693年、ファルネジーナ荘のラファエッロ作キューピッドとプシュケの版画で頭角を現し、1705年『キリストの変容』の版画で成功を収めた。彼は英国に来る前ローマにいたが、そこで身分の高い英国人と出会い、渡英を勧められた。*14 1711年彼は英国にやってきたが、翌年春頃まで仕事を始めなかったのは、ハンプトンコートにあったラファエッロ作Cartoonsを彫版する費用についてアン女王と合意できなかったからである。しかしアン女王による提案—ハンプトンコートの一室や生活必需品(薪、ワイン等)の提供—によって、両者は合意に至る。1711年10月25日、The SpectatorDaily Courantの両紙にドリグニーによる8枚の銅板画の宣伝が掲載された。その内容によれば、7枚のCartoonsの彫版画と1枚のハンプトンコートのラファエッロ画廊の彫版画が1セットで、各々高さ19インチ、幅は約30インチのもの4枚と約25インチのもの4枚、予約者には値段が4ギニーと廉価である。この価格の安さは、作者が収益よりも名誉を重んじているがためと述べられている。さらに1711年11月19日、批評家のSir Richard SteeleはThe SpectatorCartoonsを再び取り上げ、詩よりも絵画が精神にもたらす効果を称揚し、各々のCartoonsのすばらしさを説き、それらをいち早く模写し売り出したドリグニーの銅版画の予約購入を奨める。
 1712年春にドリグニーは仕事に着手したが、一人では十分な仕事ができないと知り、二人のフランス人の彫版師、Charles DupuisとClaude Duboscを助手として英国に招いた。しかしながら二三年経たないうちに意見が衝突し、ドリグニーと彼等は袂を分かつことになった。その後ドリグニーは一人で仕事を続け、1719年4月にPinacotheca Hamptonianaを完成し、ジョージ1世と皇太子に献上した。彼は国王から100ギニーとSirの称号を、皇太子からは金のメダルを与えられた。彼のこの銅版画は、先に述べた批評家のスティールからは好評を得たが、画家であり絵画理論書を著したJonathan Richardsonは「彼の最も主要な作品は『キリストの変容』で、アディソンはその作品を世界で最も優れた銅版画と呼んでいる。しかしドリグニーはそれに彼の才能をすべて使い果たし、その後記憶に残るような作品を何一つ残さなかった。Cartoonsの彼の銅版画は非常に下手で、老齢ゆえに助手の手を借りねばならなかった」*15、と酷評している。この銅版画集の巻頭にはGeorge Bickham(1679年-1758年)による版画(Fig.2)が置かれており、ジョージ1世への献辞、ラファエッロのCartoonsの由来、チャールズ1世の購入、そしてハンプトンコートに展示されていることがラテン語で説明されている。ラテン語使用は知識階級の人々の購買層を狙ったもので、それゆえこの銅版画集は一般に普及することはなかった。ドリグニーは視力の衰えで1724年4月にフランスに帰国する前に、Cartoonsに描かれた人物の104にも及ぶ頭部、手や足の模写を売却した。英国絵画に大きな影響を与えたと思われるのは、実にこれらの部分模写であった。
 1759年、ドリグニーの描いたこの104枚の素描のうち頭部の素描が数人のフランスの彫版師の手により刷られ、それらを纏めたものがThe School of Raphael, or the Student's Guide to Expression in Historical Paintingという題名でBenjamin Ralphによって発行された。この本は少なくとも3版を重ねている。1764年には、当のCartoonsがバッキンガム宮殿に移されたことを機会に、ガイドブック的な体裁で、John Boydellによって再発行された。さらに1782年の版には、初版の頭部の輪郭線、幾何学的図形、目・鼻・脚・腕・手の部分模写、古代ギリシャ彫刻のBelvedere Torso、Belvedere Apollo、Venus de' Medici、Farnese Hercules、医師Bernhard Siegfried Albinus(1697-1770)の解剖図模写が加えられた。ボイデルは、明らかにラファエッロ作『アテネの学堂』の名前を模したと思われるこの画集の題名に、画学生のための学堂への思いを込めたに違いない。この画集の最初の90枚の版画は、Cartoonsから取られた同一の頭部の陰影がついたものと輪郭線だけのものがワンセットで、したがって45の頭部から成り立っている。さらに幾何学的図形、素描の方法、そしてラファエッロ作の7枚のCartoonsの説明が付加されている。ここで興味を引かれるのは、45枚の頭部の素描がpassions「情念」の種類に分類されていることである。例えばFig.3に挙げた素描は『アナニアの死』から取られたものであるが、「恐怖」の項に分類されている。さらにFig.4は『奇跡の大漁』のキリストの姿であるが、これは「慈悲」の項に分類されている。レイフ自身が序文で述べているように、「この本の主たる意図は絵画の最も難解な部分、すなわち情念の特徴の研究を奨励すること」*16 であり、単なる技術的な面ばかりでなく、ラファエッロのCartoonsを題材にして「情念」を表現する方法も提示されている。こうした考えは、彼自身認めているように、フランス人の画家Charles Le Brun(1619-1690)から着想を得たものである。ル・ブランは1648年「王立絵画彫刻アカデミー」の中心的存在(1664年国王首席画家)となり多くの作品を残した。没後1698年に出版されたMéthode pour apprendre à dessiner les passions*17 には、画学生のために眉、目、口の変化によって「情念」を描く方法が具体的に述べられている。(Fig.5)しかしレイフは、ラファエッロのCartoonsに表現されている情念と比べ、ル・ブランのその本で説明されている情念の表現方法は極端に不十分であると主張する。ボイデルによって再発行されたレイフの本は、画家もしくは画学生のための素描の手本となり、18世紀の英国絵画に大きな影響をもたらしたと思われる。
 先に挙げたドリグニーによるPinacotheca Hamptonianaの経済的成功にあやかり、彼と決別したClaude Dubosc(クロード・デュボスク)は、より安い値段のCartoonsの銅版画を出版しようとし、7枚のCartoonsのうち自ら3枚の銅版画を1721年に制作したが、助手の必要を感じ、Nicholas BeauvaisとNicolas Bernard Lépicié(1735-1784) の手を借り、残り4枚の銅板画を作成した。その他Sir Godfrey Knellerの後を継ぎジョージ1世の肖像画家になったCharles Jervas(1675-1739)は、Cartoonsがハンプトンコートで公開される直前の1698年頃、作品の模写を行っている。原画の半分の大きさに描かれたJervasのコピーは、Gérard Audran(1640-1703) によってそのうち2枚が銅版画にされた。ドイツ人画家Jacob Christoph Le Blon(1667-1741)は1729年 オリジナルのCartoonsのコピーからタペストリーを作り、市販されているものよりは遙かに安い1/10の値段100ポンドで売り出した。さらに同国画家のBlaise Nicholas Le Sueur(1716-1783)は、1730年代にCartoonsの中のChrist's charge to Peterを木版画にしている。
 1700年代初頭Cartoonsの複製画は主に銅板画や木版画であったが、それはフランスの彫版師の手を借りねばならず、彼等によって徐々にCartoonsの名声が英国内に広まっていった。それとともに英国の画家でCartoonsの模写を行う画家が現れた。歴史画家としてすでに名声を確立していた英国画家James Thornhill(1675/1676-1734)である。彼は1718年にジョージ1世の宮廷画家となり、その2年後主席宮廷画家に任命された。彼は1710年に再建されたセント・ポール大聖堂のキューポラに1715年から8枚の絵を描かき始めた。そのうち4枚の絵はラファエッロのCartoonsと同じ主題の絵が選ばれており、明らかにそれらの作品にはCartoonsの影響(Fig.6789)が見られる。*18 したがってソーンヒルは1710年頃にはすでにCartoonsを研究していたと思われる。彼は、後に述べるジョナサン・リチャードソンとともに、ハンプトンコートに展示されたCartoonsを最初期に研究した画家で、その後1st Earl of HalifaxのCharles Montaguの紹介を得て、1729年から3年間をかけ、それらの模写を行った。美術史家George Vertueによれば、その際ソーンヒルはウィリアム3世時代に行われたWilliam Cook(1682-1709)の修復の間違いを正し、正確に模写を行った。その他画学生のためにCartoonsの頭部、手、脚の部分(Fig.10)を模写をしたが、それらは印刷されることはなかった。*19
 ソーンヒルのCartoons模写には幾つかの大きさがある。油絵の具とテレピン油で描かれたほぼ原寸大のセットは、ソーンヒルが亡くなった1735年に競売に掛けられ、John Russell(第4代ベッドフォード公爵)に200ポンドで売却された。この値段については、このセットの大きさゆえに飾るスペース上の問題で買い手が見つからず、安くなったと云われている。*20 それはしばらくベッドフォード・ハウスにあったが、1800年に第5代公爵フランシス・ラッセルによって王立美術院に寄贈され、その後Victoria & Albert美術館に移され、現在に至っている。その他ソーンヒルは1/2のサイズ(オリジナルの1/4の広さ)、1/4のサイズ(オリジナルの1/16の広さ)の複製画を作成しており、それらも同様に競売で売られた。1/2のサイズのコピーは現在コロンビア大学にあるが、1/4のサイズのコピーは行方知れずである。
 
                                          Ⅴ. Cartoonsと初期英国絵画理論について

 英国では17世紀後半期から18世紀前半期にフランスの多くの絵画理論が英訳され始めた。すでに述べたようにロンドン王立美術院が設立されたのは1768年のことであるが、フランスではその120年前の1648年にAcadémie royale de peinture et de sculpture「王立絵画彫刻アカデミー」が設立され、ラファエッロやプッサンの作品を中心にして絵画理論がすでに構築されていた。それゆえ英国は絵画理論に関して、フランスから仕入れることになった。先ず1668年にFréart de ChambrayのIdée de la perfection de la peinture がJohn Evelynによって、1695年にはCharles Alphonse du Fresnoy (1611年-1668年)のDe arte graphicaがJohn Drydenによって英訳された。1701年には Charles Le Brunの王立絵画彫刻アカデミーにおける講義The Conference of Monsieur Le Brunが、さらに1734年には同著者のMéthode pour apprendre à dessiner les passions、また1703年にはAndré FélibienのThe Tent of Darius explain'd、1706年にはRoger de PilesのL'idée du peintre parfait ; pour servir de règle aux jugements que l'on doit porter sur les ouvrages des peintres(1699年)の英訳The Idea of a Perfect Painter: or, Rules for forming a right judgment on the works of the Painters*21が出版された。これらフランスの絵画理論書にはラファエッロの作品が必ず登場し、そこで称賛される彼の絵画はバチカン宮殿の『ラファエロの間』やヴィッラ・ファルネジーナを飾るラファエッロの作品群であった。英国の画家達は翻訳や模写を通じてラファエッロのこれらの作品を知ることになったのだが、ハンプトンコートのCartoonsの展示以降フランスの画家達とは異なるラファエッロ評価を築くことになった。その先陣を切ったのがJonathan Richardson(1665-1745)である。
 ハンプトンコートにラファエッロのCartoonsが展示される以前に、リチャードソンは隣人の国王所有の絵の保管官であったParry Waltonを通じ、短冊状態のCartoonsを見ることができた。それゆえこの時期はおそらく1690年代初頭であったと推察されるが、彼は10年間ほどハンプトンコートに足繁く通い、精力的に研究し、その成果が1715年An Essay on the Theory of Paintingとなって現れた。リチャードソンのこの絵画理論書は絵画構成要素に関し、Carol Gibson-Woodの指摘するように*22、フランスのロジェ・ド・ピールの理論に影響を受けている。ピールはLa Balance des Peintresで絵画構成要素をle Compoſition、le Deſſein、le Coloris、l'Expreſſion*23 の4要素に分け、画家を各々の要素にしたがって点数化し、ルーベンスとともにラファエッロに最高点の65点をつけた。リチャードソンはピールの要素をさらに発展させ、Invention、Expression、Composition、Design or Drawing、Colouring、Handling、Grace and Greatnessの7要素で絵画を考察する。1715年の初版では取り上げた7枚のCartoonsのページ数を巻末(p.240)に記し*24、すべての要素の中でCartoonsを考察の対象にしている。しかしリチャードソンはピールの要素を発展させたのではなく、ピールの理論のフレームを借りつつ、そこから脱却しようとしていたと思われる。それはピールには見られないGrace and Greatnessの項目の中に感じ取れる。
 新古典主義的絵画理論を展開したリチャードソンは、An Essay on the Theory of Paintingの冒頭で次のように述べる。 

  我々は優れた絵の中に常に、改良された自然、あるいは少なくとも自然の中から選ばれた最善のものを見る。それゆえ我々は人、動物、風景などについて、おそらくかつて持っていたよりもより高貴で優れた概念を持つに至る。我々はほとんど、あるいは決して見られない特別な出来事や美しさを見ることになる。*25
 
 ここには明らかに、ラファエッロがパトロンであったバルダッサーレ・カスティリオーネに宛てた手紙の影響が見られる。自然は欠点に満ち、それを修正し本来の姿を表すのが画家の務めであるという考え方である。上記に引用した言葉は"Grace and Greatness"の項目の中でも再び繰り返され、イタリア派とフランドル派の比較において前者に軍配を挙げ、その中でもラファエッロは完全なモデルであると述べる。

  画家は見えるものを超越したところに自分の概念をもたらし、現実のものの中には見受けられない完成のモデルを構築しなければならない。なおかつそれは妥当性があり理知的なものでなければならない。特に人間に関して、画家はいわば全人類を高め、想像できうる限りの美、優雅さ、威厳、そして完全さを人類に与えなければならない。*26

 画家の想像力の中で自然の欠点を修正する視点は、人類にも適用され、ラファエッロのCartoonsには現実には存在しない高貴な威厳のある人々が存在するとリチャードソンは主張する。しかし、リチャードソンがここで挙げているラファエッロの作品は、バチカン宮殿を飾っている作品ではなく、ハンプトンコートにあったCartoonsであった。ド・ピールの絵画理論ばかりでなく、当時のフランスのアカデミーで論じられたラファエッロの作品のほとんどがバチカン宮殿やヴィッラ・ファルネジーナを飾っている絵であり、一方リチャードソンがモデルにしている彼の作品はすべてハンプトンコートのCartoonsである。おそらくラファエッロの異なる作品の評価から、リチャードソンはピールおよびフランスのアカデミーの束縛から解き放たれることができたのである。
 一体、バチカンのラファエッロの絵とCartoonsとの間にどのような違いをリチャードソンは感じ取ったのであろうか。バチカン宮殿を飾っているラファエッロの絵とCartoonsを比較してみると、7枚のCartoonsには漁師、使徒、魔術師、異教徒、足の不自由な人、財産をごまかした人等、さまざまな人物が描かれ、また彼等の表情も実に多様である。「ハンプトンコートはラファエッロの偉大な学堂である」*27 と述べたリチャードソンは、おそらくCartoonsに描かれた特異な人物の豊かな表情や姿勢、その高貴さや威厳の表現や卑しさに魅了されたと思われる。

   ハンプトンコートの荘厳なる画廊に入ると、人がかつて見たことがあるものよりも、またかつて現実に存在したであろう人々よりも優れた種類の人々の間に自分がいることを知るだろう。*28

 一方バチカン宮殿のラファエッロ作品にたいし、彼は辛らつな批評を加える。1722年に出版されたAn Account of Some of the Statues, Bas-Reliefs, Drawings, and Pictures in Italy は、リチャードソンの息子ジュニアのイタリアでの調査に基づいて書かれたガイドブック的な体裁の本であるが、単なるガイドブックではなく、絵が飾られている状況および各々の絵の分析が緻密に行われている。中でも特にバチカン宮殿の『ラファエッロの間(Stanze di Raffaello)』に置かれた彼のフレスコ画にたいして多くの頁が割かれている。*29リチャードソン父子の批評の一例として「署名の間(Stanza della Segnatura)」にある『アテナイの学堂』を挙げてみよう。その絵には手に持つ本、開かれた本、書き込まれた本など幾冊かの本が描かれているが、当時の書物はすべて巻子本であったことから、彼等はラファエッロの歴史的な間違い*30 を指摘する。またこの絵には多くの才人が描かれているが、エピクロス主義者やストア哲学者も加えられるべきである*31 と、彼等は批評する。各々の絵に批評を加えた後、『ラファエッロの間』の作品とハンプトンコートのCartoonsを比較し、彼等は次のように結論づける。

  『ラファエッロの間』には世界で最も偉大な画家による作品の最大のコレクションがある。にもかかわらず、それらの作品は、必ずしもそれらが持つ偉大な名声やそれらに付けられた名前から人が当然期待しうるようなものではない。なるほどラファエッロはここに見られる。しかし彼の真価について正しい判断ができるようなものではない。またどの絵、どの宮殿、どのコレクションにもラファエッロの長所は十分に見られない、と私は思う。しかし彼についてより優れ、より正しく、より完璧な評価をもたらしてくれる宮殿が、ここ以外の所にある。その場所こそハンプトンコートである。*32

 ド・ピールの絵画理論から出発したリチャードソンは、彼のフォームを借りながら、ラファエッロの評価の対象をバチカン宮殿からハンプトンコートのCartoonsに移行させることによって、フランスのアカデミーの呪縛から解き放たれ、英国独自の絵画理論を形成した。彼の絵画理論書を少年の頃読み、画家を目指すことを決意したSir Joshua Reynoldsは、ロンドン王立美術院の初代院長となり、講演集を纏めたDiscoursesを出版した。それゆえリチャードソンは英国絵画理論の基礎を作り上げた画家とは言えないだろうか。

*1 William Holman Hunt, Pre-Raphaelitism and the Pre-Raphaelite Brotherhood, pp.68-69(second edition, 1914)
*2 John Shearman, Raphael's Cartoons in the Collection of Her Majesty the Queen and the Tapestries for the Sistine Chapel, (Phaidon Press, 1972), p.3
*3 ibid., p.143
*4 Henry VIII, Assertio Septem Sacramentorum (Benziger Brothers, 1908)
*5 ibid., pp.23-24
*6 Thomas P. Campbell, Henry VIII and the Art of Majesty (Yale University Press, 2007), p.262 
*7 ibid., p.246
*8 John Shearman, op. cit. p.144
*9 John Shearman, op. cit. p.145
*10 Margaret Whinney and Oliver Millar, English Art 1625-1714, (Oxford at the Clarendon Press, 1957), p.126
*11 Rev. W. Gunn, Cartonesia:An Historical and Critical Account of the Tapestries, in the Palace of Place of the Vatican (1831), pp.16-17
*12 Abraham Van der Doort, A Catalogue and description of King Charles the First's capital collection of pictures, limnings, statues, bronzes, medals, and other curiosities: now first published from an original manuscript in the Ashmolean Musaeum at Oxford (1757), p.166
*13 Richard Blackmore, A Hymn to the Light of the World. With a Short Description of the [C]artons of Raphael Urbin, in the gallery at Hampton-Court, (1703), p.16
*14 George Vertue and Horace Walpole, Anecdotes of Painting of England, Vol.iii (1849), p.966
*15 Jonathan Richardson, The Works of Jonathan Richardson (1792), p.263
*16 Benjamin Ralph, The School of Raphael, or the Student's Guide to Expression in Historical Painting,1782, p.18
*17 英訳は1701年出版された。
The Conference of Monsieur Le Brun, Chief Painter to the French King, Chancellor and Director of the Academy of Painting and Sculpture; upon Expression, General and Paticular
*18 Richard Johns, "An Air of Grandeur & Modesty": James Thornhill's Painting in the Dome of St.Paul's Cathedral, Eighteenth-Century Studies, vol.42,no.4(2009), pp.501-27
*19 George Vertue, Anecdotes of Painting in England, vol.4(1771), pp.20-23
*20 ibid., p.23
*21 Roger de Piles, The Art of Painting, and the Lives of Painters:Containing, a Compleat Treatise of Painting, Designing, and the Use of Printsに収録されている。
*22 Carol Gibson-Wood, Jonathan Richardson: Art Theorist of the English Enlightenment, (Yale University Press, 2000), p.143
*23 Roger de Piles, Cours de Peinture par Principes, 1708, p.489
*24 1725年の再版では削除されている。
*25 An Essay on the Theory of Painting, 1715年, p.9
*26 ibid., pp.161-162
*27 ibid., p.121
*28 ibid., p.165
*29 Richardson, Sen. and Jun., An Account of Some of the Statues, Bas-Reliefs, Drawings, and Pictures in Italy, 1722, pp.193-261
*30 ibid., p.212
*31 ibid., p.213
*32 ibid., pp.250-251

 

 

関連サイト

・Henry VIII, Assertio Septem Sacramentorum 

Margaret Whinney and Oliver Millar, English Art 1625-1714

Abraham Van der Doort, A Catalogue and description of King Charles the First's capital collection of pictures, limnings, statues, bronzes, medals, and other curiosities

Jonathan Richardson, The Works of Jonathan Richardson

Benjamin Ralph, The School of Raphael, or the Student's Guide to Expression in Historical Painting

Roger de Piles, The Art of Painting, and the Lives of Painters:Containing, a Compleat Treatise of Painting, Designing, and the Use of Prints

Roger de Piles, Cours de Peinture par Principes


 

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