top of page

            イギリス国教会における偶像崇拝禁止について

                           imageを廻って                                                                                                                                                                 高倉 正行

(1)はじめに

​英国では信仰心を鼓舞するために絵画が利用されることはない。英国の教会では絵画はせいぜい祭壇背後を飾るために利用され、それに注意を向ける者は誰もいない。英国人の住居には肖像画もしくは版画以外の装飾品はなく、美術愛好家の飾り棚には海外の絵以外に何もない。*1                  Jean-André Rouquet                                                                                   

​ 英国において絵画を最高度の完成へと導くためには、以下のことが切実に望まれる。公の礼拝の場所からこの種の絵画作品を駆逐するという狭い了見は完全に打破されるべきだ。適切に選ばれた主題の絵であってもプロテスタントの教会には置かれるべきではないという考えにたいする確実な根拠はどこにもない。ローマカトリック教を信奉する人々は木製の聖人像や絵を崇拝する。だからといってイングランド国教会に所属する人々にとって、単に礼拝場所に飾られているという理由で、崇拝の対象として意図されていない絵を見ることが罪になるなどという議論は成り立たない。*2                                                                                            John Gwynn

                                                                                                                                                                  

​​​​ 「ローマ帝国衰亡史」を書いたギボンは、宗教芸術に対するイングランド国教会の態度を「冷徹なつましさ」と評し、ローマカトリックの態度を理性の敵と見なしてはいるものの、それが宗教芸術を育んだと述べた。*3しかし1755年ジュネーブ生まれの画家であったジャン・アンドレ・ルーケは、英国において宗教芸術はイタリアと異なり宗教心を育むものではなく、単なる装飾品でしかないと述べている。それゆえ英国に存在する宗教絵画は主に邸宅を飾るために海外から持ち込まれたものであり、たとえ教会に設置された宗教芸術品であっても宗教的な価値がないということになる。つまり彼の主張によれば、ローマカトリック教会で崇拝される宗教芸術は英国の教会では否定され、英国人画家による宗教芸術は生まれないということになるだろう。

 一方王立美術院の創立メンバーの一人であったグウィンは、ローマカトリック教会を飾る芸術作品は条件付きでイングランド国教会でも認められるべきだということを主張する。この条件とは宗教心を育まないような、「崇拝の対象として意図されていない」芸術は肯定されるべきだということだろう。この意見の背後には当時英国の教会内に宗教芸術が置かれるべきではないという意見があったと想像できる。

 ルーケおよびグウィンの主張から17、18世紀のイングランド国教会内に宗教芸術を飾ることの賛否両論が存在していたと推論することができる。*4これはイングランド国教会設立時に端を発する事柄であり、それ以降18世紀初頭までにイングランド国教会において宗教芸術がどのように扱われたかについて述べてみたい。

(2)イングランド国教会初頭時の偶像崇拝禁止について

​ ヘンリ8世は離婚問題を契機にローマカトリック教から離脱し、1534年国王をイングランド国教会の長とするAct of Supremacy(国王至上法)を制定し、国教会の首長に君臨した。彼は若い頃敬虔なローマカトリック教徒であったことは知られているが、イングランド国教会の首長になった以後、カトリック教との決別を強調するために様々な教会改革を行った。その一つにローマカトリック教において栄えた宗教芸術の否定があった。ヘンリー8世の指示により、国王の主席大臣であり司教総代理でもあったThomas Cromwellは2回(1536年と1538年)にわたり「王立差し止め命令」(The Royal Injunctions of Henry VIII)を作成・発布した。1538年に発令された「差し止め命令」には教会内に設置された宗教芸術を偶像と見なし、それを禁止する偶像崇拝禁止が述べられている。その命令は17項目あり、偶像崇拝禁止について6番目と7番目の項目にわずかばかりの説明がある。

 6番目の項目には人間の空想によって作られた作品を信用しないこと、巡礼に出かけたり、金銭やろうそくやテーパーをimages(教会内の宗教芸術)や遺物に捧げたりすること、あるいはそれらに唇で触れること、このようなことは迷信的行為であり、偶像崇拝を助長する行為であり、全能の神が最も忌み嫌うことであると述べられている。さらに7番目の項目では偶像崇拝の最も忌まわしい罪を避けるために作り物のimagesを直ちに撤去することが勧められ、imagesは無学な文字を知らない人々の教本以外の目的にかなうものではないとされる。もしそれ以外の目的で濫用されるならば、偶像崇拝に陥り、魂を大きく危険にさらすことになる。いずれ

の項目にせよ偶像崇拝の危険についての記述はきわめて短い。

 ヘンリ8世の崩御後その後を継いだのは3番目の妃であるジェーン・シーモアの間に生まれたエドワード6世(在位、1547-1559)である。彼が即位したのは9歳であったため、その摂政を行ったのは母方の伯父であるエドワード・シーモアであった。彼による差し止め命令は1547年に発布され、ヘンリ8世治世の差し止め命令より若干文字数は増えている。*5しかし全36項目のうち偶像崇拝禁止に関して述べられているのは2と3番目の項目であり、ヘンリ8世による偶像崇拝止を踏襲した内容になっている。

 エドワード6世の在位期間(1547-1553)は短く、それゆえその時期に行われた宗教改革は重要であるが、ローマカトリックとの決別は十分に功を奏したとは言えない。さらに彼の死後イギリスの女王となったメアリー1世(在位 1553-1558)は敬虔なローマカトリック教徒で、エドワードによって進められたイングランド国教会の改革は一旦止まってしまう。5年あまりの在位の後メアリー1世の崩御の後を引き継いだのがエリザベス1世で、彼女はプロテスタントであり、イングランド国教会の首長になる。彼女による差し止め命令は1559年に発布され、全53項目のうち偶像崇拝禁止について述べられているのは2項目目で、わずか数行でしかない。しかし27項目目に説教集(Homilies)について次のような記述がある。

 

     女王の領土と主権の及ぶ多くの場所において牧師が不足しているため、臣民は無知・無分別に陥っている。

     それゆえすべての牧師、教区司祭、副牧師は毎週日曜日に彼らの教会で説教集Homiliesを読むべきであろ

    う。*6

ここで言及されている説教集とはエドワード6世とエリザベス1世の治世下に2回にわたって作成されたThe Books of Homiliesであろう。最初のThe First Book of Homiliesは1547年に、2冊目は(1563年、1571年完成)に発布された。エドワード王時代に発布された説教集は12項目しかなく、偶像およびその禁止についての言及はない。彼の崩御の後異母姉のメアリー1世が後を継いだが、彼女はローマカトリック教徒であり、プロテスタントに対する過酷な迫害を行った。それゆえ多くのプロテスタントの主教や僧侶たちは迫害を恐れ出国した。5年間の彼女の統治後、再びプロテスタントのエリザベス1世が女王となり、追放あるいは出国していた主教や僧侶たちは帰ってきて、再びイングランド国教会のもとで宗教活動を行った。2冊目のThe Second Book of Homiliesは首長であるエリザベスと彼らとの齟齬を解消し、さらにメアリーの治世との決別を強調するために再び作成されたと思われる。この説教集は21項目あり、その中の第2章「偶像崇拝の危険と教会の不必要な装飾に関する説教」"An Homily Against Peril of Idolatry, and Superfluous Decking of Churches"に偶像崇拝禁止について全項目の中で最も長い説明が与えられている。このことからもエリザベス朝時代に発布された説教集において偶像崇拝禁止が如何に重要であったかが推察される。​

 第2章は3部から構成されており、第1部では教会における偶像崇拝への非難、偶像の語源、旧約聖書と新約聖書の中の偶像崇拝禁止について述べられている。第2部、3部では原始教会の教父たちの偶像崇拝禁止について、ローマ帝国の分裂による偶像の排斥と擁護、および偶像崇拝が信仰にもたらす危険などが説明されている。本論ではイングランド国教会における偶像崇拝禁止について述べることを目的としているので、欽定説教集の第2章第1部を中心にして偶像崇拝禁止について述べてみたい。

 まず第2章第1部の最初のページに偶像崇拝禁止について次のことが述べられている。

 

      聖書の最も明白な教義に反し、純粋で腐敗していなかった原始教会の慣習に反し、教会の最も古代の学識 

     があり敬虔な  博士たちの判決と判断に反し、最近の堕落により教会には数え切れないほどのイメージ

     (images)がもたらされた。*7                                             

ここで述べられている教会とはもちろんイングランド国教会ではなくローマカトリック教会であるが、重要な点はそこにはなく、「イメージ」(images)という言葉に焦点が向けられるべきである。現代英語にはないこの言葉の意味は次のように述べられている。

 

      通常の会話において我々は人の肖像や他のものの類似性を、idolsではなく、imagesと呼ぶ。しかし聖書で

      は上記の二つの単語(idolsimages)は常に一つのことを表すために無差別に使われている。それらは異

     なる言語と音の言葉であるが、聖書では一つの意味と意義を持つ言葉である。前者はギリシャ語のidol

   (eἴdωλον)から、後者はラテン語のimagoから取られ、それゆえ聖書を英語に翻訳する時に両単語が無差別

     に使われた。*8

上記の引用文に依れば、idolsimagesは聖書において同じ意味で使われている。しかし両単語の意味は通常の会話と聖書の言葉では混同しやすいので、欽定説教集では両単語を区別する。

 

      通常、ある人たちは異教徒の神殿や崇拝される他の場所に設置されたものの肖像や類似物をidolsと名付け

     てきた。しかし、礼拝の場である教会に設置された同じような像をimagesと呼んでいる。*9

すなわちイングランド国教会以外の異教の礼拝場所に設置された宗教芸術をidol(偶像)とみなし、「礼拝の場である教会」、すなわちイングランド国教会の教会のそれをimageと区別したのである。欽定説教集では両者の単語は同じ意味であるが、idolは否定され、imageと呼ばれる宗教芸術は否定されると同時に肯定される対象となった。イングランド国教会においてローマカトリック教の意味合いを持つimageは否定され、崇拝の対象とならないimageは肯定された。異教徒の礼拝場所に設置された宗教芸術(idol)は偶像として破壊されるべき存在(iconoclasm)となり、一方イングランド国教会の教会に設置されたそれは破壊すべき対象であると同時に、グウィン及びWalpoleのように宗教芸術の無垢性(礼拝の対象とならない宗教芸術)を強調することによって肯定された。*10それゆえidolという言葉とは異なり、imageという言葉はイングランド国教会においては非常に曖昧な価値を付与される言葉となった。

 imageという言葉で捉えられる宗教芸術が17,18世紀のイングランド国教会内でどのように扱われていたか、あるいはその言葉がどのような事件をもたらしたのか、3 つの事例を紹介し、imageという言葉の曖昧性を述べてみたい。これらの事例を取り上げた理由は、それにまつわる当時の資料を比較的入手為やすいからである。

(3)All Hallows by the Tower教会におけるimageについて

​オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー(All Hallows Barkingとしても知られている)教会におけるイメージ問題を述べる前に、当時英国が置かれていたカトリックとプロテスタントの状況について簡潔に触れてみよう。

 1649年チャールズ1世の処刑後、オリバー・クロムウェルの率いる議会派によって9年間のCommonwealth of England(イングランド共和国)が誕生する。しかしクロムウェルの死によって王政復古が誕生し、チャールズ2世がイングランド国王となる。彼は王政復古後議会を軽視し、1672年にRoyal Declaration of Indulgence(信仰自由宣言)を発布し、イングランド国教会の反逆者であるカトリック教徒を擁護しようとした。その結果カトリックの蔓延を恐れたイングランド国教会の司祭Titus Oates(1649-1705)と神学者のIsrael Tonge(1621-1680)は架空のカトリック陰謀事件Popish Plotを捏造し告発した。それはカトリック教徒がプロテスタントを虐殺してロンドンに火を放ち、チャールズ2世を暗殺して弟のヨーク公ジェームズを王位につけるという内容であった。1666年のロンドン大火の記憶が癒えない時期にロンドン市民の不安は一層煽られ、その結果1678年から1681年にかけて英国は反カトリックの喧噪に巻き込まれた。1679年になるとその騒動は幾分落ちついたというものの、プロテスタントとしての正統な王位継承者が存在しないという不安が人々の間に広まり、その不安を解消するために議会はExclusion Bill(王位排除法案)を提出し、チャールズ2世の弟でカトリック教徒のジェイムズ2世を排除しようとした。しかし3度(1679、1680、そして1681年)の法案提出にもかかわらず、その法案は議会を通過することはなかった。

 このような不安定な社会状況の中、1680年にロンドン塔の西に位置するオール・ハローズ・バイ・ザ・タワーの教会内に飾られていた木造の天使像についての起訴状が1680年2月末日に提出された。この起訴状を提出したのはEdward Whitakerという人物で、起訴状の具体的な内容のみならず彼についての詳しい情報を得ることはできないが、彼はホイッグ党の弁護士であり、また非国教徒の活動家であったったことが述べられている。*11この起訴状はGeorge Hickes(オールハローズの牧師)、Jonathan Saunders(説教師)、オールハローズの教区委員たちに向けられたものであった。その起訴状を読むことはできないが、その要旨はジョナサン・サンダーズによって纏められている。

 

    起訴状の要旨は、彼(および起訴された他の人物)が迷信にとらわれ、この王国の法律を無視して聖ミカエ

    ルの彫像を聖餐台の上に破壊せず立てたままにし、国王の臣民の間に偶像崇拝と迷信的な崇拝を持ち込むと 

    いう大きな危険を冒したことであり、これはこの事件で規定された法律に反し、我々の主権者である国王、

    その王冠、威厳などの平和を脅かすものであった。*12

 聖ミカエルという名の木製の天使像への抗議は突然に起こったものではない。抗議以前にこの教会では儀式の方法に関してプロテスタントの教区民から疑問の声が上がっていた。当時の牧師はジョージ・ヒックス(1642-1715)で、彼の弟John Hicks(1633-1685)はイギリスの非国教徒の牧師であった。さらに前任者のEdward Layfield(1605-1680)英国国教会の牧師でありながらも儀式尊重主義で、ラウディアン派の高教会主義を実践し、オール・ハロウズの教区民と対立していた。さらに説教師のジョナサン・サンダーズにいたっては説教の方法や服装に関して、教区民から不満の声が上がっていた。*13イングランド国教会とローマカトリックの対立が深まる中、オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会に突然現れた天使像がその対立の象徴として利用されることになる。

 ウィテカーによる告訴に関し、オールハローズ・バーキング教会の教区委員、牧師、説教師の間で齟齬が生じた。この経緯は匿名のパンフレットによって次のように述べられている。

    先週の日曜日夕方の説教の後、教区牧師は聖職者会議を招集し、教区の主要人物19名と聖職者全員が出席し

    た。彼らが着席し、起訴状の根拠となった法令が読み上げられた。シャーマン氏が聖職者会議への出席を拒

    否したため、ヒックス牧師がこの件全体に関する手続きについて報告した。オールド・ベイリー(中央刑事

    裁判所)に出頭する前夜に、起訴状の手続き方法について聖職者会議に相談するのが彼らの義務であると考

    えており、彼らの弁護は(彼の意見では)必要かつ容易であるとシャーマン氏に伝えていたにもかかわら

    ず、シャーマン氏は彼の助言と同意もなく、また明らかにそれに反した行動を取ったと彼らに告げた。*14

 サンダースとシャーマン両者の目指す地点は同じであった。それは天使像によって混乱に見舞われたオールハローズの教区をできるだけ早く沈静化し、教区民に安心を与えることであった。しかしanti-image派のシャーマンとpro-image派のサンダースは正反対の行動に出た。

 この起訴状に対し最初に行動に出たのは教区委員のシャーマンであった。1681年2月にウィッテカーによる起訴状はミドルセックスの四季裁判所(後にオールド・ベイリー)の大陪審で正式に認められた。3月7日の四季裁判所開催の前夜にオールハローズ・バーキング教会の聖職者会議を欠席したシャーマンは、翌日裁判所に出かける。彼はその時オールハローズ・バーキング教会に飾ってあった天使像(起訴状では聖ミカエル像)を法廷に運ばせたのである。ヒックス牧師はそのことを知り激怒し法廷を退席するが、説教師のサンダーズは留まり、裁判の成り行きを見守った。

 シャーマンが天使像を法廷に持ち込んだ理由は、起訴状で訴えられている木製の天使像が聖ミカエル像であると断定されていて、それを否定するために持ち込んだと考えられる。それは治安判事のタナー氏の意見*15によるところが大きい。彼の判断によれば、起訴状はエドワード6世時代に制定された古い法律に基づいており、その法律では当時存在していた特定の書籍やイメージだけを対象としていて、それゆえ20年ほど前に作られた天使像には適用されないこと、さらに起訴状では聖ミカエルの名前で起訴されているが、聖ミカエルはラファエロ作の『聖ミカエルと竜』のように竜を踏みつける姿で描かれるのが通例であり、この天使像には竜が描かれていないので聖ミカエル像ではない、というものであった。

 ウィテカーによる控訴は聖ミカエル像を中心になされたが、この点に関し、サンダーズとシャーマンによるパンフレットの題名を比べてみると、二人のウィテカーに対する反論の差異を明瞭に理解することができる。サンダーズによるパンフレットの題名はA Narrative of a Strange and Sudden Apparition of an Arch-Angel at the Old-Bayly, on Monday March the 7th. 1680と題されており、彼はウィテカーの主張する聖ミカエル像と書かずに"an Arch-Angel"(大天使)と書き、オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会の木製像は聖ミカエル像ではないと主

張する姿勢が見て取れる。一方シャーマンによるパンフレットの題名はThe Birth and Burning of the Image Called S. Michael(第2部も同じ)で聖ミカエル像と明記されている。それゆえシャーマンは教会に飾られている木製像が聖ミカエル像(「と呼ばれている」と留保をつけてはいるが)であり、偶像であるがゆえに放置できないと主張していると思われる。

 シャーマンは治安判事タナー氏の意見に同意し、迅速に裁判を終わらせるために天使像を法廷に持ち込んだ。しかし彼のこの思惑は逆の結果をもたらすことになった。彼らは有罪判決を認めたが、裁判所からその像を焼却せよという命令は受けなかった。聖ミカエル像の起訴については多くの雑誌や新聞で取り上げられ、それゆえ関心を持つ多くの人々がこの法廷に押しかけた。その中にはそれを自分の庭に置くため、外国商人や売春宿に売るために買いたいと叫ぶ野次馬たちがいた。シャーマンは彼らの声を無視し、その像を分解して聖具室の暖炉で焼却すると群衆に約束した。その後彼は教会にその天使像を持ち帰り、聖具室で天使像を焼却した。「彼は天使像の翼を燃やし、教皇も聖ペテロもそのようなものは持っていなかったと断言した。それで説教の後、その場にいた教区役員の紳士たち全員の前で、彼はポケットからその像の足の一部を取り出し、彼らに言った、これでローマまで飛んでいくことも出来ないし、歩いて行くことも出来ない。」*16

 シャーマンの独断的な行動に対して、彼を非難する最初のパンフレット*17が現れた。著者は述べられていないが、オールハローズ・バーキング教会の牧師ジョージ・ヒックスであると考えられている。*18題名"Strange and Sudden Apparition of an Arch-Angel at the Old-Bayly"から理解できるように、シャーマンがオールド・ベイリーの法廷に天使像を持ち込んだことに対する非難、および天使像の来歴について述べられている。しかし天使像の焼却については一切触れられていないので、シャーマンがその像を焼却する前に書かれ発行されたと思われる。その次に発行されたパンフレットの題名はA New Narrative of a Fiery Apparition Seen on Several Days about Tower-Hill. Or, A Just Relation of the Unjust Proceedings of Mr. Sherman, Church-Warden of All-hollows Barkin, London. By Jonathon Sanders, lecturer of the said church(1681)で、著者はpro-image派の説教師のジョナサン・サンダーズと明記されており、シャーマンによる天使像の焼却後に書かれた。わずか4ページの内容であり、時系列に従って簡潔に述べられている。

​1680年3月6日(日曜日) オールド・ベイリーの法廷の前夜

        オールハローズ・バーキング教会での聖職者会議(シャーマン欠席)

1680年3月7日(月曜日) オールド・ベイリーの法廷審議

   シャーマンは教区委員の許可なく天使像を教会の東端から降ろし、オールド・ベイリーの法廷に運び、

            審議終了後天使像を教会に戻す。シャーマンは単独で有罪判決を受け入れる。

1680年3月8日(火曜日) 天使像は教会に留まる。

1680年3月9日(水曜日) 天使像はベテル保安官のもとに送られる。 

1680年3月13日(日曜日) 説教が行われた後聖職者会議が行われる。その後シャーマンは自宅から天使像の一

          部を聖具室に持ってきて、そこで焼却する。

1680年3月20日(日曜日) 晩祷の前に、シャーマンは天使像の翼と脚の一部を聖具室の囲炉裏で焼却する。

1680年3月27日(日曜日) 晩祷の前に、天使像の残った破片を聖具室の囲炉裏で焼却する。

​ これら2 冊のパンフレットに対してanti-image派のシャーマンによるパンフレットが現れた。題名The Birth and Burning of the Image Called S. Michaelが示すようにこのパンフレットでは天使像(聖ミカエル像)がどのようにしてオールハローズ・バーキング教会に現れたのか、そしてどのようにして焼却されたのかについて詳述されている。さらにシャーマンは先行の二つのパンフレットをジョナサン・サンダーズによるものであると断定し*19、彼を激しく罵る。

 このイメージ(天使像)は1659/60年に教区委員の許可なく作られ、西端の尖塔内部にあった「死と時」の透かし彫りの間の文字盤の上に置かれた。天使像の右手が握る鉛の紋章には「汝死者よ、起き上がれ、そして裁きに来たれ」と彫られていたので、おそらくこの像はMemento Moriとして「死と時」の透かし彫りの装飾品として作られたように思われる。この場所に留まっていれば問題は生じなかったと思われるが、1675年教区委員のJames Clementがこの像を教会の東端にあった「モーセの十戒」の上に移動した。そのことが信徒たちの間に大きな疑問を生じさせることになった。説教師サンダースの「モーセの十戒」に頭を垂れる行為は、信徒たちの目には「聖ミカエルの前で体をかがめ、聖ミカエルの鼻の下で祈りを捧げる」*20行為と映ったのである。彼らはイングランド国教会では禁止されている行動を教区委員のシャーマンに報告した。それゆえオールハローズ・バーキング教会の聖ミカエル像に対する告発はエドワード・ウィテカーによるものであるが、おそらくその背後にはシャーマンが存在していたように思われる。

 ウィテカーによる聖ミカエル像の告発にたいし、サンダースはエドワード6世時代に作られた法律に基づいているから告発の妥当性がないこと、およびその天使像は聖ミカエル像ではなく単なる装飾品であると主張した。シャーマンは天使像を弁護するこれらの理由では不十分であるとし、サンダースへ次のように問いかける。

 

    私の物語とあなたの印刷された二つの出現は、どちらがこの件について最も真実の説明となるでしょうか。

    このイメージを秘かに聖具室の暖炉で燃やしたことと、あなたの印刷された二つの出現のどちらが、このニ

    ュースと喧噪を最も遠くまで広めたでしょうか。私が焼却したこととあなた印刷物、どちらがよりよい行動

    だったのでしょうか。*21

 この問いに対してサンダースは返答せず、すでに発行された彼の二つのパンフレットで述べられた内容を繰り返すだけである。しかし、タイトル*22の後に新約聖書の『ローマの信徒への手紙』(4-15)から「律法のないところに違犯もありません」、さらにパンフレットの最後に旧約聖書の『ゼファニヤ書』(3-5)から「不正を行うものは恥を知らない」が引用されており、シャーマンに対する激しい嫌悪が窺える。

 サンダースが聖書から引用した言葉に直ぐさまシャーマンはThe Second Part of the Birth and Burning of the Image Called St. Michael(『聖ミカエルと呼ばれる像の誕生と焼却の第 2 部』)を発行し、同じく聖書の言葉で反応する。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」『ヨハネによる福音書』(3-19)。さらにパンフレットの副題で「オールハローズ・バーキング教会の説教師、ジョナサン・サンダースへの新しい手紙」と名指しながら、彼を"Dark Lanthorn nameless Author"と呼び変えている。ダーク・ランターンとは暗闇に潜む泥棒や怪しい人物の手持ちランターンのことで、それを翳している匿名人物とサンダースを揶揄している。

 ウィテカーの起訴の対象である聖ミカエル像は聖ミカエルの形をしておらず、また聖人像として評判になったということもないとサンダースは述べた。しかしシャーマンはそうは言ってもそれはイメージ(像)であり、十戒が書かれた上部に置かれたことで大きな不快感とスキャンダルを引き起こしたと主張した。それゆえシャーマンは「あなた(サンダース)が聖像を弁護したよりも、私が焼却した方がはるかに称賛に値する」と考えた。

 

    したがって、今回の場合、イメージ(天使像)がそのような場所に置かれ、それが置かれた場所にあなたは

    上がり礼拝を行うことによって、そのような不快感とスキャンダルを引き起こしたのです。イメージがそこ

    に置かれる(パンとワインがあった聖餐の日は除く)前にはあなたは決してそのようなことはしなかったの

    です。そしてまたその像を放置したことで教区委員が告発されたとき、教区委員のような役員がそれを引き

    倒して燃やすことは確かに十分に合法でありました。特に聖櫃、つまり神の教会が(ペリシテ人の)カトリ

    ック教徒の手に落ちる大きな危険にさらされていた、今もさらされているような時期においては。そしてイ

    メージはその宗教と切り離すことのできない象徴であるので、私が見た(私は多くの教会を見てきたが)カ

    トリック教徒の教会でイメージ(聖像)のないものは一つもありません。*23  

  シャーマンはimageの放置を神の教会(イングランド国教会)がローマカトリックの軍門に下ることに結びつけ、教区民の恐怖心を煽ろうとする。架空のPopish Plotによって反カトリックの感情を植え付けられたイギリス国民はこの事件を多くの新聞、雑誌、パンフレットを通じて知ることになり、この教会に押し寄せた。しかしシャーマンの独断によって騒動の中心であるイメージが焼却された後、人々の関心は薄れ、シャーマンによるこのパンフレットにサンダーズは答えず、二人のパンフレット論争は沈静化する。シャーマンはこの直後にオールハローズ教区委員としての職を終え、一方サンダーズはこの教会の説教師として留まり、教会における装飾としてのイメージの使用を擁護しようとする。1682年にオール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会に設置された豪華な洗礼盤の蓋(キューピッドのような天使像によって支えられた果物のカスケードが入念に彫られている)、その数年後に教会の祭壇の背後の装飾壁に描かれたモーセとアロンの絵は、彼を大いに喜ばせた。教会の美化という名目の下に設置されたこれらの新しい華美な装飾品に教区民たちも嫌悪感を示すことはなかった。オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会の天使像はイングランド国教会において許可された装飾品と禁じられたimageの間に明確な境界線はないことを明らかにし、それゆえanti-image派とpro-image派との間の論争に決着がつくことはなかった。

 

(4)LeicestershireのMoulton教区とLincolnの主教Thomas Barlowの論争

​ 1684年リンカンシャー州のモールトン教区でイメージに関する新たな論争が起き上がった。その論争はモールトンの教区教会に13人の使徒の絵を飾ることをめぐって教区委員たちと教区司祭のPhilip Tallentsの間で勃発した。教会内に使徒の絵を飾る許可は最初教区長代理によって与えられたが、設置後に教区長であり教区司祭のフィリップ・タレンツはその許可を却下した。それゆえ幾人かの教区民は教区教会の東端の聖餐台の上に使徒の絵を飾る許可をカンタベリー州の最高位のアーチ裁判所(Court of Arches)に訴えた。その結果絵の設置に反対したタレンツは敗訴し、罰金を支払うことになった。*24

 この論争はモールトン教区で起こった出来事であり、オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会のように他の教区の関心を引くようなことはなかった。しかしタレンツの上司に当たるリンカーン司教トーマス・バーロウ(1607-91)はこの論争にたいしてanti-imageの立場のパンフレットを発行した。*25このパンフレットは当時のイングランド国教会のイメージに関する典型的な考えであったと思われる。

 そのパンフレットには冒頭でモールトン教区教会で起こった出来事が簡潔に述べられている。幾人かの教区民によって教区教会を美化するために以下のことが行われた。

 

       1.教会の壁に以前書かれていた聖書の言葉をすべて洗い流した。

       2.その後(教区民の総意あるいは許可や助言なくして)彼らは5、6人の使徒のイメージを設置した。(37

            人の教区民たちは手を挙げてそのことに抗議したので)そのことに大いなる怒りを覚えた彼らはリンカ

            ーンの副司教(Deputy-Chancellor of Lincoln)から彼らが行ったことの承認を得て、さらに多くの像

            effigies、彼らはそのように呼ぶことを好んだ)を設置する権限を与えられた。

      3.この権限によって彼らは聖パウロを含む13人の使徒のイメージを設置した。ペテロのイメージは十戒の

            上に、そしてパウロのイメージは英国王の紋章の上に置かれた。それらの上に鳩をを象った精霊が描か

            れた。さらに(イングランド国教会で使われていた聖書の英語訳を軽視して、誤りの多い、馬鹿げた俗

            ラテン語の聖書を遵守し)彼らは角の生えたモーセを描いた。

      4.そして彼らは事後的に彼らが行ったことの承認を主教に請願した。しかし主教はその請願を却下した。

           その理由に関して(その幾つかは以下に述べる)、主教は彼らが行ったこと(戒律にないこと、反してい

           ること)を承認するつもりはないし、できないと、と彼らに告げた。

    5.最後にリンカーンの司教は「imageを設置すること」に関して副司教の許可を無効にした。そこでその設

          置に携わった人々(教区の同意なく)はアーチ裁判所に訴えた。*26

 画家と幾人かのリンカーン教区民による絵の設置、およびリンカーン教区の副主教の許可に関して、リンカーン司教バーロウはイングランド国教会の権威と教義に違反していると主張する。ここでバーロウが違犯の典拠しているのは主にエドワード6世およびエリザベス1世による「差し止め命令」(Injunctions)*27、そして2番目の欽定説教集(The Second Book of Homilies)の「教会及び神の社の正しい使用とそれに伴う崇敬についての説教」(An Homily of the Right Use of the Church or Temple of God, and of the Reverence due unto the Same)*28などである。これらの典拠からの引用はすべてイングランド国教会の教会内でのimageの使用を禁じている。教会を美化するためにイメージを利用することは神を冒涜するすることになり、さらに教会に書かれた聖書の言葉を消した行為は教会の最高権威者である国王によるものを教区民が勝手に消したことになり、それは認められることではないと述べる。*29しかしバーロウは、イングランド国教会はすべてのイメージを否定しているわけではない。国教会は絵画芸術や市民のイメージ使用に反対しているわけではなく、「imageもしくはidol(国教会の判断においてはそれらは同じものである)を我々の教会内に設置することは神を冒涜する行為」なのであり、「それらを崇拝する大いなる機会を与えることになる。」「教会内にイメージがあれば偶像崇拝を避けることは不可能であり、神、聖なる救世主、聖人のイメージは教会内にあると最も危険なものとなる。」*30特に三位一体(父なる神God the Father、キリスト・子なる神God the Son)、および聖霊the Holy Spirit)のあらゆるイメージは聖書において教会内のみならずその外でも絶対的に禁じられている。

 しかしバーロウはimageという言葉の否定的側面だけを見ているわけではなく、肯定的側面についても述べる。「我が国の宗教改革者たちはイメージの否定にたいして熱狂的であり、無分別にimageにたいして敵意を持つ。彼らは創意に富む絵画芸術、さらには市民のイメージ使用を非難している。」*31この意見に対してイングランド国教会によれば、あらゆるimageは新約聖書で絶対的に非合法、あるいはすべての場所で禁じられているわけではなく、幾つかの場所や状況においてのみ禁じられている。つまり、「我々の教会は絵画芸術もしくは市民のイメージ使用を禁じているわけではない。」*32バーロウによれば教会もしくは公的な礼拝場所に置かれたimageは偶像として否定的なスティグマを持つことになるが、邸宅のような私的な空間や美術館等に置かれたimageは許容される。それゆえこの論文の冒頭で引用したジャン・アンドレ・ルーケの言葉から理解できるように、イングランド国教会設立以降英国に宗教芸術が存在しなくなったということはなく、17世紀以降グランドツアーの興隆によって海外の絵画芸術、特に宗教芸術が英国内にもたらされ、貴族の邸宅を飾りだした。

 モールトン教区の教会の出来事は、オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会の聖ミカエル像を廻ってのパンフレットによる罵倒合戦ではなく、教会内に使徒の絵を飾ることの是非に関してであり、それはアーチ裁判所の判決で終結した。それゆえ他の教区を巻き込むような騒動を引き起こすには至らなかった。しかしバーロウのパンフレットは30年の時を経て1714年に再版された。

(5)St Mary Matfelon Churchに飾られた「最後の晩餐」

​ ロンドン塔から北東に1.5キロほど進んだところにあるSt Mary Matfelon Churchは一般にはセント・メアリー教会、ホワイトチャペル(St. Mary White-Chapel)*33として知られている。1714年に祭壇にJames Fellowes作の「最後の晩餐」の絵が掲げられた。作品は現存していないが、版画が残されている。17世紀イングランド国教会の教会内にイメージ(宗教画)を飾ることはタブーとされていたが、18世紀になるとその呪縛も解けかかってきたように思われる。その背後にはラファエッロ作Cartoonsの公開(1698年)や聖ポール大聖堂のキューポラに英国人画家James Thornhillによるイメージ(1715年)*34等が描かれたりして、教会内に設置されたイメージを偶像とみなす気運が弱まってきたように思われる。

 このような気運の中、教区牧師のRichard Weltonは「最後の晩餐」の絵を祭壇背後に飾る許可を出した。彼は1697年から1715年までにホワイトチャペルのセント・メアリー教会の教区牧師を勤め上げた。彼はジャコバイト派の強い支持者であり、それゆえホイッグ党の聖職者たちを嫌悪していた。この絵に関してロンドン司教John Robinson (1650-1723)の裁判所で訴訟を起こされ、1714年4月26日にその撤去を命じる判決が出された。主任牧師のウェルトンはChurch-Ornament without Idolatry Vindicated「偶像崇拝を伴わない教会装飾の正当性」*35と題された小論文を発行し、「最後の晩餐」の絵の正当性を主張した。

 

    私が恐れているのは次の結果である。近頃、国中に華々しく広がっている英国の教会を美しく飾り立ててき

    たあの公の精神が、どれはどの傷を負い、窒息させられたことか。その結果、私の教会、私の国民、そして私自身

    が物笑いの種となり、ホイッグ党の汚点にたいする非難となり、その党を名指したり、応答することは汚辱

    となるだろう。*36

 

この視点は旧約聖書『列王記』(6.28-29)の引用によって強調されている。「彼はケルビムも金で覆った。神殿の周囲の壁面はすべて、内側の部屋も外側の部屋も、ケルビムとなつめやしと花模様の浮き彫りが施されていた。」これはソロモンによって建造されたのイスラエルの神殿の描写であり、神によって神殿を飾り立てることが許可された説明をウェルトンは自説を正当化するために引用し、次のように断言する。

 

    第一に、私たちの聖別された場所において、このような絵は善良なキリスト教徒にとって侮辱やスキャンダ

    ルをもたらすような正当な機会ではありません。第二に、私たちの欽定説教集には、神の家をそのような慎

    みのある適切な装飾によって美しく飾る宗教的なデザインを完全に禁止・否定する意図や意味は決してない

    のです。第三に、私たちの教会におけるこれらの絵は、正しい目的に充てられたとき、特別な利点と有用性

    を持つのです。*37

ここに訳出した「絵」を表す英語はrepresentationでありimageではない。ウェルトンは当然のことimageという単語がイングランド国教会にとって否定的な意味合いを持つことを熟知しており、それを避けるために他の用語を使ったと考えられる。imageという用語を使えば必然的にその背後にある価値判断が付きまとってくる。それゆえウェルトンはニュートラルな意味を持つrepresentationを使ったと思われる。しかし彼はイングランド国教会の初期において偶像崇拝禁止を肯定的に捉えていた。

 

    私たちの教会の説教集が初めて書かれたとき、宗教は無知と偶像崇拝に覆われ、宗教改革はまだ幼少期にあ

    り、夜明けを迎えていた。偶像(images)は忌まわしい礼拝の儀式張った目的のために長い間設置され、置

    かれてきた。昔の聖人たちは、それらの手段、そして非宗教的な実践の機会を与えるあらゆるものをすべて

    取り外し、除去するのが当然のことだった。彼らがあらゆる偶像ににたいして明確な態度を取ることはふさ

    わしいことだった。というのも、それによって無知な人々や偶像崇拝に固執する国が、あの忌まわしい罪に

    再び陥る機会を持つことになるかもしれないからだ。*38

 

ウェルトンはイングランド国教会の幼少期における偶像崇拝を否定的に捉え、その後教会におけるrepresentations(宗教芸術)を条件付きで肯定的に捉えた。この条件を彼は次のように述べる。

 

    そしてローマカトリックの教義を支持するようなあらゆる議論の利用は、私たちとはほど遠いところにあ

    る。それは偶像崇拝や迷信を少しでも助長しないようにするためであり、神や善良なすべてのキリスト教徒

    にたいし本当に不敬虔で忌まわしいものとして我々はそれらを嫌悪し、拒絶する。しかし、これらのものが

    装飾的で神の家にふさわしいものである限り、また、それらが下等な事物から心を遠ざけると考えられる限

    り、そして私たちが肉と血を有し、魂が感覚を通して印象を受けることができると考えられる限り、私たちの

    教会をこれらのような無垢な似姿で飾り立てることは、不合理なことではなく、決して不敬虔なことではな

    い。*39

つまりウェルトンが肯定したのは、イングランド国教会において、ローマカトリックの偶像崇拝や迷信を助長させるものではない、信者に不敬虔で忌まわしい感情を抱かせない、神の家にふさわしい宗教芸術であった。彼の論文の副題には"an Altar-piece Lately Erected In the Church of St. Mary White-Chappel"(最近セント・メアリー教会、ホワイトチャペルに置かれた祭壇画)と付け加えられており、それゆえこの論文では祭壇画「最後の晩餐」、およびイングランド国教会の教会における宗教芸術の正当性の証明にかなりの部分が充てられている。しかしセント・メアリー教会の祭壇画がもたらした問題は「最後の晩餐」という宗教芸術にあったわけではない。

 ジェームズ・フェローズ作「最後の晩餐」には13人の使徒が描かれているが、セント・メアリー教会の教区牧師であったウェルトンはイスカリオテのユダの代わりにソールズベリー主教であったGilbert Burnet (1643-1715)を描くよう指示した。しかし、その結果を恐れ、フェローズはその代わりに当時St Mary Aldermary教会の教区牧師であったWhite Kennett (1660-1728)を描く許可を得た。ケネットはジャコバイトを激しく嫌悪し、その支持者であったウェルトンから敵対者とみられていた。さらに使徒ヨハネは少年として描かれており、カトリック教徒であったジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(James Francis Edward Stuart、1688-766)に似ていると噂された。この噂が広まり、多くの見物人が祭壇画を見るためにセント・メアリー教会に押し寄せた。その中にケネット婦人もいて、ユダの代わりに夫が描かれていることを認識し、怒りを露わにした。そこでケネットはロンドン司教のジョン・ロビンソンの裁判所に訴え、1714年4月26日にその絵の撤去を命じる判決を獲得した。

 フェローズ作「最後の晩餐」の絵は多くの大衆をセント・メアリー教会に招くことになったが、それはその絵のimageの宗教上の否定的側面からではなく、その絵を利用して行ったウェルトンによる政治的画策にたいして、大衆が興味をかき立てられたからだと思われる。判決後にウェルトンが出版した論文では大部分がimageの肯定的側面の証明に向けられており、政治的側面についてはほとんど述べられていない。それが述べられているのは、裁判前にチャンセラー(主教代理)から受けたわずかなアドバイスだけである。

 

    チャンセラーは、次回の裁判に備えて準備しておくために、ユダに髭を生やし、顔色を変え、聖ヨハネの頭を

    老けさせれば(ちなみに、他の方法では全く予想外だった)、絵を取り外す義務はなくなるはずだ。そしてそ

    れに応じて、聖ヨハネとユダを変えて描いた新しい絵のスケッチを入手するように彼は命じました。*40

 

 チャンセラーはウェルトンの意図に明らかに気づいており、ケネットおよびエドワードと気づかれないように絵の変更を求めた。しかし絵の撤去の判決を考えれば、ウェルトンは変更のアドバイスを反故にしたと思われる。セント・メアリー教会の祭壇に置かれたフェローズ作「最後の晩餐」の絵がもたらした騒動は偶像としてのimageではなく、それを利用しての政治的主張であった。おそらく、イングランド国教会の教会において宗教的芸術が政治的に利用されたのは、この事例が最初であったと思われる。

(6)終わりに

 17,18世紀のイギリスの宗教芸術の文献を読むと、idolimageという言葉に頻繁に遭遇する。前者の単語が派生語のidolatry「偶像崇拝」という単語からも分かるように、イギリス国教会では否定される「偶像」を意味することはたやすく理解できる。しかし後者の単語は、前後の文脈から判断して何らかの宗教芸術(彫像・絵画)を意味していると思われるのだが、idolのように確定的な意味合いを含んでいるようには感じられない。それは時に否定的に遺棄されるべものと考えられたり、別の時には肯定的に捉えられ祭壇に置かれたりする。この関係を簡略化して図式的に表現すれば、下記のようになる。

                                   idol←image→ornament, representation

idolはローマカトリックの教会を飾る宗教芸術で、イングランド国教会から見れば偶像であり、遺棄されるべき対象である。国教会の教会を飾る宗教芸術はimageと呼ばれる。しかし欽定説教集によればidolimageは同じ意味であり、本来ならばidolと同様に遺棄されるべき対象になるだろう。しかしイングランド国教会ではimageを崇拝の対象ではない宗教芸術と捉え、単なる装飾(ornament)や絵・彫像(representation)と考えるpro-image派の人々も現れた。したがってイングランド国教会では教会内の宗教芸術を否定するanti-image派の人々とそれを肯定的に捉えるpro-image派の人々が対立することになった。

 オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会では天使像というimageの解釈を廻って、anti-image派の教区委員シャーマンとpro-image派の説教師サンダーズとの間に対立が起こった。リンカンシャー州のモールトン教区教会では13人の使徒の絵を廻って、教区司祭のフィリップ・タレンツの拒絶からリンカーン司教トーマス・バーロウがanti-imageのパンフレットを発行した。セント・メアリー教会ではウェルトンが「最後の晩餐」の絵をホイッグ党に対する嫌悪とジャコバイトの支持に利用し、imagesの宗教的な問題を政治的対立へとずらした。イングランド国教会において教会を飾った宗教芸術の是非はimageがもたらした両義性によって複雑化し、それは教会内の宗教芸術をimageと呼ぶ限りおいてその両義性は解消されることはないと思われる。

注・引用文献

  • Facebook
  • Twitter
  • LinkedIn

©2020 by 英国絵画初期理論。Wix.com で作成されました。

bottom of page